XX空間のイメージ ネパール・カトマンズにて2019年4月から5月(その1)


2019年4月26日から5月7日まで、カトマンズのパタンにて建築家石山修武氏が提案している芸術学校White Mountain Moon Collegeの新設活動に立ち会いました。
おそらくフラーも参加していたBlack Mountain college から着想を得たと思われます。開校日はMoon、つまり太陰暦で決めるとのこと。氏からは当初レクチャー担当を打診されたのですが、そう簡単には済まないことは覚悟していました。おそらく学校のハードとしての実体はまだないのであろうと…

というわけで、最初はレクチャーにこぎつけるまで、開校のための示威活動としての市内の公共水場の清掃活動に参加して、日本人たちがなぜか街を掃除しているぞニュースに出演したりしていました。そのあいだも石山氏は以前に知り合った若い現地の画家が経営するボダナートのチベット難民地区にあるギャラリーに目をつけ、そこで準備レクチャーをすることを取り付けました。レクチャーは予定通り実現したわけです。(以降長文になります。)

さて、当初の打診の段階から、ネパールで何をレクチャーするかは決めていました。それは家から、そして女性性から、社会空間を設計し直すという提案です。なぜネパールでこの内容だったかには二つの理由があります。

XX空間への興味
一つは、女性性への着目です。2013年2月、プレート境界の旅の途中に訪れたカトマンズ市内で同地の住居形式に触れて以来、家が持つ社会への能動的な役割に興味を持っていたからです(ブログ内リンク1リンク2、参照:「溜まる街 カトマンズ盆地にて」『動く大地、住まいのかたち プレート境界を旅する』2017)。現地名でヴィハール(Vihar)というその伝統的集住ユニットは氏族(toli)ごと、中庭を囲繞するように建っています。過密化した都市の中ではその氏族の空間の私有関係は立体化し複雑化しています。往来に面するヴィハールには、ほぼ例外なくその一階が間口の狭い各種の店が付加されています。裏にあるヴィハールでは店の代わりに何らかの仕事場になっています。
さてその住居をめぐって、滞在中、特にベルの実との結婚(Ihi)という、カトマンズの主要民族であるネワリ族の少女に特有の儀式について興味を持ちました。それは少女が家の中庭で、ヴィシュヌ神の化身であるベルの実と象徴的に結婚するものです。これは少女とその出身の氏族の共有空間を代表する中庭が紐付けされるということに他なりません。これによって後の男性との結婚は相対化され、彼女とその出身家の関係は維持されるという巧妙な役割があると感じていました。そのほかにもカトマンズの居住形式には女性性が高位についている所作があります(次回に紹介予定)
もう一つは、家の社会的役割です。近著『未来のコミューン』(インスクリプト、2019)の結論部分で私はこう書きました。「家、社会がそれぞに含む要素の境界は注意深く再定義しうる。なによりも自らが望むべき両者の平衡状態に向けて、形とコンテクストの閾をほぐし、あきらめずに境界線を見いだし、再び集合し、新しく空間を確保すること。これが未知の「家」、そして未来のコミューンである」(p.256)と。
つまり家は通常、特に日本の都市部では、私的なものとして社会から分離しているように見えます。しかしながら都市の風景を見るとき、その空間を実体的に構成するのは集合住宅も含めた家、居住の割合が半分以上なのではないでしょうか。公共建築が提供する公共空間の他に、家から発する公共空間が潜在しているはずです

女性性、そして家から生まれる公共空間の性格を検討することは、この数年私が常に抱いてきたテーマの一つでした。そのシナリオはネパールを発つ前に発表済みでした。

 例えば次のような建築提案はわかりやすいだろうか。プロジェクト名はXX建築である。 XXは女性性を示す染色体記号である。その建築の目的は女性の活動・生存様式を優先してあらゆる社会的建築、空間のデザインを作り変えることだ。一方で現在の社会を構成するかたちは男性=XYを主体として構成されている。現在のオフィスは、家内制手工業から離れ、産業革命以来の産業建築の派生物である。その建築の中で人は性や死を権利として行使することはできない。産業建築は人間の生物的側面を排除するために作られたのであり、その理想は「二四時間営業」である。その目的のためにはXYの活動・生存様式の方が都合がよかった。それゆえ不可避的に月一の中断を持ち、妊娠と出産の契機を持つ女性性が登場するには、XY+Iのオプションとしてでしかありえなかった。あきらかに活動機能の種目の多いXXが、少ない XYのふりをしなければならなかったのだ。しかし今ここで社会の活動原理をXXから始めたらどうなるだろう? すると社会には中断の時間があちこちで頻発するようになる。そうすればおそらく社会構造は根底から変更される。(「未知の家から見える風景・XX」『文学界』2019年4月号)

結果的にこのレクチャーにおいては、女性性の部分まではディスカッションが深められませんでした。しかしながら家から発生する社会的空間のメカニズムについてはある程度その骨格をつかんだと思います。

レクチャーまでに準備したもの
日々方針や条件が変更される中での発言の方法には臨機応変の準備が必要とされます。言葉だけからプロジェクター環境が整備されるまで、いくつかの段階を見越して現地で準備しました。以下がその内容です。

1)ベルの実の実物を獲得
まず私がある程度カトマンズの市内居住の内実を知っていることを示すためにも、ベルの実との結婚についてのディスカッションが必要です。そのためにはまず私が見たことのない本物のベルの実を手中にすることが必要です。最初ゲストハウスの主人いわくの家に残っているはずの実を探し出してくれるのを期待していましたが結局見つからず、マーケットで探して買ってきてもらいました。一個60ネパールルピー。既往研究通り、柑橘系の硬い実です。この中の果汁はいつまでたっても腐らないことからベルの実が象徴的に用いられたのだとのこと。

2)主張内容の現地フライヤー作成
次に、石山氏の機嫌のいい時(朝)に当方のレクチャー内容を一発で了解させるために、心のこもった主張書を日本語で書きました。氏はじっくり読み込んで、予想外の無条件オッケーを出しました。今回のメイントピックにするとのこと。すかさず、日本語のできるゲストハウスのマスターにお願いして、手書きで翻訳してもらい、それを現地のコピー屋さんでコピーし、最低限の資料はこれで完備させました。マスターは日本語教師のところにまで出向いて、正確な翻訳を期したとその紙を当日渡してくれました。パタンのMahabuddha guest houseは日本語完全対応です。安心して宿泊してください。

3)当日までに現地で集めた風景素材
さらに聴衆に納得してもらうには、とりあえず当方が現地を数日間は歩き回って素材を探したことを示すことも重要です。東京に外国の先生が来て、「新宿から学ぶ」とか言って、ネットから拾ってきたネオンサインの写真一枚をイメージに出していたらちょっとげんなりします。あれを回避したいと思います。実際に現地で街を歩きつつ考えをまとめたのでその時の写真をいくつか用意し、その風景がXXか、XYかを検討してもらうのに使うことにしました。

4)プロジェクター用プレゼンテーション
プレゼンテーションには、ライブ感も必要というか、どうしてもそうなってしまうので、作図の難しいところはノートに手書きして、それをスマホで撮影して、プレゼンテーション内に落とし込みダイアグラムを作成しました。

次回はレクチャー当日のプレゼンテーション内容について報告したいと思います。(つづく)

カテゴリー: Events, Lectures | コメントをどうぞ

なぜ家は存在するか、『未来のコミューン 家、家族、共存のかたち』1月25日刊行


未来のコミューン_オビなし

装幀 間村俊一、挿画 大鹿智子
定価:本体3,200円+税
四六判上製 320頁
ISBN978-4-900997-73-8

かたち三部作」の最終巻の公刊が目前となりました(2019年1月25日、インスクリプトから)。本書は「なぜ家は存在するか」についての検討から始まり、共同体を生み出すかたちの力について検討したものです。これでクブラー『時のかたち』の翻訳経験を経て、外環境としての地球の大地から、内環境としての人間、そして彼らを守る器、取り巻く社会までの見取り図を描いたつもりです。『未来のコミューン』について、「あとがき」ほぼ全文を以下に掲載することにしました(出版社による案内にあるように、近代的共同体についての「めくるめくプロファイリング」を展開しています。興味を持たれたら是非ご入手ください)。

あとがき

生きることとデザインをすることはつながっている。 より正確にいうと、生きることを続けようとすることと、身の回りのかたちを調整し、そこに適当な役割や意味を与えようとすることは、必ずつながっている。その最もみじかな人類の成果が、人間を守る器としての家であった。 本書では家に不可避的に生じてしまう様々な事象を具体的にあげた。そしてそれらを生み出す家の構成を露わにするために、その生物的、社会的、歴史的意義を私の経験的回路からまず再検討しようとした。

まず、このような家の構成に気づいたのは、第一章・化モノの家で論じたように日本の伝統的民家における暗い部屋─ナンド─の特殊な役割を知った時であった。それは家屋形式が全く違うインドネシアの高床住居にも通底する構成であった。ここで大事なことは、初源的な家の構成は、もとより普遍的であるため、将来においても必ずそれは様々な事象を出現させることである。本書はそのような気づきからはじめられたが、完成には予想以上に長い月日がかかった。というのも、書くことによって出現する新たな意味の進展に私自身が戸惑い、その咀嚼に時間がかかったからである。

第二章・神の子の家は、説話「三匹の子ブタ」たちが選択した家を建てる素材の順列(藁、枝、煉瓦)に対する素朴な疑問から始まった。そして同話の複数の歴史的ヴァージョンを渉猟する中で、この話にはある時期に、前近代と近代以降それぞれの家が意味を違えるところの決定的な徴が刻まれていた。これは決して予想しえなかった結論であり、さらにその結末で次章三章における近代住宅成立の最も具体的な条件の導出という課題が現れた。このように、家の構成に検討を加えることで、さらに新しい構成的問題が出現するという継続的なプロセスで本書は書き進められた。

これら作業と並行して、私の運営する研究室ではウィーンの建築家アドルフ・ロースによる全論考の翻訳プロジェクトが進んでいた。その過程で彼のテクストに、生活空間に対する同様の構成的意図を見出したことは幸いであった。二〇世紀初頭に「装飾と犯罪」を発表、装飾を弾劾し近代建築の立役者になったはずの彼の論考は、むしろ生活一般の律し方としてのデザイン全体を論じていた。そのなかで、時にはその背景となるヨーロッパ文明の根幹が鋭く語られていた。ロースの論考の射程を論じた第四章によって、近代以降の住宅に過去から変わらずに内在している課題群が筆者の前に湧き上がってきた。 これら検討領域の広がりは、近代における家を構成する要素についての、その外延をさし示すこととなった。家の追求が、ロースというヒンジで一転し、家の外部に向かっていくことになった。この経緯が、最終的な書名を「未來のコミューン」とした理由である。家と「未來のコミューン」との関係の定義は二五六頁を参照していただきたい。

それ以降の第五章からエピローグまでの四編は、その重要な課題群に向かいあった結果である。 第五章は空間論である。フリードリッヒ・エンゲルスによる一九世紀労働者住宅街レポート、二〇世紀初頭に実現した田園都市、オルダス・ハクスレーの近未来小説までを援用し、それらの知られざる接線を発見しつつ、予測された近未来の社会像とその時空間の構造を描いた。それはいまだに到達可能なディストピアとして現前している。

第六章は共同体論である。成員の維持方法を共同体成立に関わる根源的問題として見出した、近代アメリカの宗教的コミューンを扱った。その活動をハンナ・アーレントの言う人間の「はたらき」─labour, work, action─の三階梯の視点から見直すことによって、彼らの特異と思えたふるまいから逆に人間活動の普遍的構造を導き出した。

第七章、エピローグは住み方のデザイン論であり、家の範疇の再組織化を検討している。家は人々の生を守るべきものである。その極点を精神医学者R・D・レインらが組織した「反治療施設」であるキングズレイ・ホール前後の活動に見出し、その射程を論じた。レインらは、人間特有の「病」発生の場所を社会と個人の境界に位置する「家族」に見出したのだが、その意味を初期のクリストファー・アレグザンダーが論じたかたち─コンテクスト論から検討し直している。

そしてエピローグは治癒の場所の批判的回復を、べてぶくろ という具体的な場所での経験を通じて試みたのである。結局それらが本書で提出することになった、未来のコミューンにむけての基本プロットになっている。

ひとつひとつ謎を解くように書き進めてきた各章は、ふりかえってみれば断片的なデモテープの集積になってしまっていた。当初の目的もみるみる変化し、それらは自分にとって制御の難しいデーモニッシュな存在となっていた。これらを公にするにあたっては第三者の的確な批評が必要になっていた。私はその役割を、インスクリプトの丸山哲郎氏に求めた。
氏の承諾を受け、書籍化のための作業が開始された。断片的なテキストに対する氏の批評は容赦なく、その独善や欠落や飛躍を指摘してくれた。その結果として当初のテキストは真に大幅に書き直され、さらに有意で決定的な加筆で縫合された。『未来のコミューン』という本書のタイトルもまた加筆作業中の賜物である。彼の協力がなければ、おのれの活動の身の丈を明らかに超えている本書を公開する勇気は生まれなかった。…

なお、初出一覧は以下となります。リンクのあるものはその初期の論文の全部もしくは一部が読めるようになっています。あとがきでも特に記したように、一冊の書物にまとめるために、編集者の厳密な査読協力を得て、いずれも大幅に改稿、加筆しました。

イントロダクション  家の口  『現代思想 柳田国男特集』2012年 09 月所収「常の民家の際にて」を改題

第1章  化モノの家   10 1No.50, 2008年所収「化モノ論ノート」を改題

第2章  神の子の家  『d/sign』No. 18, 2010年所収「三匹の子ブタの家」を改題

第3章  パイピング建築論 家における聖と俗  『d/sign』No. 18, 2010年「家の食道」を改題

第4章  装飾と原罪  『d/sign』No. 17, 2009年「装飾という原罪」を改題

第5章  科学から空想へ  Nakatani Norihito’s Blographyにてヴァージョン1を公開、2012年 10 月 26 日

第6章  大地を振りはらうこと  Nakatani Norihito’s Blographyにてヴァージョン1を公開、2015年 04 月 05 日

第7章  家 コンテクストを動かすかたち  書き下ろし

エピローグ  庭へ続く小径  書き下ろし

主な参照文献は以下の通りです。

 柳田国男「民間些事」『定本柳田國男集』十四巻、筑摩書房、一九六九、今和次郎『日本の民家』岩波文庫、一九八九(初版一九二二)白茅會編『民家圖集』洪洋社、一九一八(古川修文・永瀬克己・津山正幹・朴賛弼編『写真集よみがえる古民 家│緑草会編『民家図集』』柏書房、二〇〇三)内田隆三『柳田国男と事件の記録』講談社選書メチエ、一九九五、柳田国男『山の人生』一九二六『定本柳田國男集』四巻、筑摩書房、一九六八 、柳田国男『故郷七十年』一九五九『定本柳田國男集』別巻第三、筑摩書房、一九七一、柳田国男『遠野物語』一九一〇『定本柳田國男集』四巻、筑摩書房、一九六八、Roxana Waterson, The Living House—An Anthropology of Architecture in South-East Asia, Tuttle Publishing, 2009邦訳:ロクサー ナ・ウォータソン、布野修司監訳『生きている住まい─東南アジア建築人類学』学芸出版社、一九九七、佐藤浩司「建築をとおしてみた日本」『海から見た日本文化』〈海と列島文化〉 10 巻、小学館、一九九二、大河直躬『住まいの人類学─日本庶民住居再考』平凡社、一九八六、 R. H. Barnes, Kédang: A Study of the Collective Thought of an Eastern Indonesian People, Clarendon Press, Oxford University Press, 1974、宮本常一『日本人の住まい─生きる場のかたちとその変遷』農山漁村文化協会、二〇〇七、 鈴木棠三『佐渡昔話集』民間伝承の会、一九三九 柳田國男編『佐渡昔話集』〈全国昔話記録〉第一編、三省堂、一九四二、関敬吾編『日本昔話大成』四巻「本格昔話三」角川書店、一九七八、太田邦夫「空間の虚構」『新建築』一九六七年七月号、English Fairy Tales, Collected by Joseph Jacobs, Illustrated by John D. Batten, London, David Nutt, 1890、新宮輝夫「「三匹の子ぶた」について」『三匹の子ぶた』講談社、一九九九、谷本誠剛「『三匹の子ぶた』のお話─昔話と児童文学」日本イギリス児童文学会編『英米児童文学ガイド─作品と理論』研究社出版、二〇〇一、Domenico Giuseppe Bernoni, “Le tre ochete,” Tradizioni Popolari Veneziane, 1873. 英語訳:Thomas Frederick Crane, The Three Goslings, Italian Popular Tales, 1875、 大竹佳世「近代における《家を建てる》根源的意味に関する研究─三匹のコブタ・バベル・コルビュジエ」 平成一七年度大阪市立大学建築学科中谷研究室修士論文、Anthony Quiney, House and Home—A History of the Small English House, British Broadcasting Corporation, 1986, 邦訳: アンアンソニー・クワイニー、花里俊廣訳『ハウスの歴史・ホームの物語(上)─イギリス住宅の原形とスタイル』〈住まい学体系 067〉、 住まいの図書館出版局 、一九九五、ロジェ= アンリ・ゲラン、大矢タカヤス訳『トイレの文化史』筑摩書房、一九八七、白井晟一「住宅思言」『新建築』一九五三年一一月号、白井晟一「無窓無塵」『無窓』筑摩書房、一九七九年、初出『婦人之友』一九七七年五月号、白井晟一「虚白庵随聞」「白井晟一研究」企画編集室編『白井晟一研究I』南洋堂出版、一九七八、岡崎乾二郎「建築が思想を持つ条件」『建築と日常』 No. 1、二〇一〇 、アドルフ・ロース、鈴木了二、中谷礼仁監修、加藤淳訳「装飾と犯罪」『にもかかわらず』みすず書房、二〇一五、 アドルフ・ロース、鈴木了二、中谷礼仁監修、加藤淳訳「女たちのモード」『虚空へ向けて』編集出版組織体ア セテート、二〇一二 、アドルフ・ロース、鈴木了二、中谷礼仁監修、加藤淳訳『ポチョムキン都市』みすず書房、二〇一七、ゲオルク・トラークル、中村朝子訳『トラークル全集』青土社、一九八七 エルヴィン・マールホルト、田中豊訳「人間と詩人ゲオルク・トラークル」http://appleorange.cafe.coocan.jp/ 、オットー・バージル、田中豊訳「自己証言と写真記録の中のゲオルク・トラークル」http://appleorange.cafe. coocan.jp/ 、ハンス・ペーター・デュル、藤代幸一、三谷尚子訳『裸体とはじらいの文化史』法政大学出版局、一九九〇、バーナード・ルドフスキー、加藤秀俊、多田道太郎訳『みっともない人体』鹿島出版会、一九七九 、上野千鶴子『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』平凡社、二〇〇二、ミシェル・フーコー、渡辺守章訳『性の歴史I 知への意志』新潮社、一九八六 、フリードリヒ・エンゲルス、武田隆夫訳『イギリスにおける労働階級の状態』〈マルクス・エンゲルス選集〉二巻、 新潮社、一九六〇、フリードリヒ・エンゲルス、戸原四郎訳『家族・私有財産・国家の起源』岩波文庫、一九六五、 ルイス・モルガン、荒畑寒村訳『古代社会』彰考書院、一九四七、 エベネザー・ハワード、長素連訳『明日の田園都市』鹿島出版会、一九六八、 上野千鶴子『家父長制と資本制─マルクス主義フェミニズムの地平』岩波現代文庫、二〇〇九、オルダス・ハクスリー、松村達雄訳『すばらしい新世界』講談社文庫、一九七四、伊藤杏奈、中谷礼仁「SF小説『すばらしい新世界』(一九三二)とイギリス近代都市計画の近親性─エベネザー・ ハワードとパトリック・ゲデスを対照として」二〇一二年度日本建築学会大会梗概、オルダス・ハクスリー、中村保男訳『永遠の哲学』平河出版社、一九八八 、オルダス・ハクスリー、河村錠一郎訳『知覚の扉』平凡社、一九九五、パトリック・ゲデス、西村一朗訳『進化する都市』鹿島出版会、二〇一五、 今和次郎「都市改造の根本義」日本建築学会編『建築雑誌』一九一七年一月号、村田充八『コミューンと宗教─一灯園・生駒・講』行路社、一九九九、 カント、小倉志祥訳「人間歴史の臆測的起源」『カント全集』一三巻、理想社、一九八八、 Howard Mumford Jones, O Strange New World: American Culture—The Formative Years, Viking Compass, 1964、ロバート・N・ベラー、松本滋、中川徹子訳『破られた契約─アメリカ宗教思想の伝統と試練』新装版、未來社、一九九八、 ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房、一九九四、マックス・ウェーバー、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、一九八九、荒井直「「労働」観─キリスト教文化と古代ギリシア」『山梨英和短期大学紀要』30, 17-35, 1996-12-10、藤門弘『シェーカーへの旅─祈りが生んだ生活とデザイン』住まいの図書館出版局、一九九二、穂積文雄『ユートピア西と東』法律文化社、一九八〇 Everett Weber, Escape to Utopia, Hastings House, 1959、岡崎乾二郎、中谷礼仁「発明の射程」『 10 + 1』 No. 15 、INAX出版、一九九八、倉塚平『ユートピアと性─オナイダ・コミュニティの複合婚実験』中央公論社、一九九〇、 バートン・H・ウルフ、飯田隆昭訳『ザ・ヒッピー─フラワー・チルドレンの反抗と挫折』国書刊行会、二 〇一二、 エド・サンダース、小鷹信光訳『ファミリー─シャロン・テート殺人事件』草思社、一九七四、 Janice Holt Giles, The Believers, Houghton Mifflin Company, Boston, 1957、クリストファー・アレグザンダー、稲葉武司訳『形の合成に関するノート』鹿島出版会、一九七八、橳島次郎『精神を切る手術─脳に分け入る科学の歴史』岩波書店、二〇一二、山本貴光、吉川浩満『脳がわかれば心がわかるか』太田出版、二〇一六、立岩真也『造反有理─精神医療現代史へ』青土社、二〇一三、 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス─資本主義と分裂症』(上下) 河出書房新社、二〇〇六、フェリックス・ガタリ、杉村昌昭訳『分子革命─欲望社会のミクロ分析』法政大学出版局、一九八八、フェリックス・ガタリ、杉村昌昭訳『精神病院と社会のはざまで─分析的実践と社会的実践の交差路』水声社、 二〇一二、 R・D・レイン、阪本良男、笠原嘉訳『家族の政治学』みすず書房、一九九八、 R・D・レイン、A・エスターソン、笠原嘉、辻和子訳『狂気と家族』みすず書房、一九九八、 R・D・レイン、村上光彦訳『結ぼれ』みすず書房、一九七三、 Dominic Harris, The Residents, published by author, England, 2012、門眞一郎「キングズレイ・ホール異聞」『精神医療』一三巻三号、一九八四、 ジョゼフ・バーク、メアリー・バーンズ、弘末明良、宮野富美子訳『狂気をくぐりぬける』平凡社、一九七七、 クリストファー・アレグザンダー他、平田翰那訳『パタン・ランゲージ─ 環境設計の手引』鹿島出版会、一 九八四

カテゴリー: Publications, Uncategorized | 1件のコメント

賀頌・かたち三部作仕上がりました


2019web

あけましておめでとうございます。かたち三部作(自分の中での企図ですが)がようやく仕上がりました。

『動く大地、住まいのかたち プレート境界を旅する』2017年岩波書店では、プレート境界上の動く大地のなかの住まいのかたちを報告しました。

『時のかたち 事物の歴史をめぐって』(G.クブラー、1962刊)2018年鹿島出版会は、頓挫していた翻訳プロジェクトがようやく日の目を見たものです。

『未来のコミューン 家、家族、共存のかたち』2019年インスクリプトが刊行の運びとなりました。家に込められた近代的課題の解読を中心とした共同体論になります。

いずれも長い時間がかかったものですが、途中で東日本大震災後の状況を色々感じつつ、かなり深掘りをした作業になりました。後半二作について紹介します。(*と思ったのですが、以下長くなったので『未来のコミューン』については、また日を変えてしっかりと紹介させていただきたいと考えます。→書きました。)

人間が作ったあらゆる事物のかたちのシークエンスによって歴史の新しい記述方法に挑んだ『時のかたち』(1962)の邦訳は公刊済みです。この本について、なぜ解題を書かなかったのか、なぜ訳注が極端に少ないのか?という質問をいただきましたのでお答えします。翻訳書刊行に向けての交渉時(2005年ごろ)において、クブラーのご遺族から翻訳について様々な条件が付されました。実現が難しい注文もあり、これによって邦訳刊行はいったん頓挫しました。その後、著作権管理がイェール大学出版局に移行することによって、ようやく2015年ごろから刊行作業が事務的に動くことになりましたが、今回の刊行にあっても以前の条件の一部(解題、訳注の禁止)は動かしがたかったというのが実情です。まずは相応に妥当性のある翻訳の公開をめざしました。精訳においては加藤哲氏に本当に懇切にご指導いただいたこと、多くの訳注を削らざるを得なかった共訳者の田中伸幸氏の並々ならぬ苦労と無念をねぎらわずにはおれません。解題ではないのですが、私自身は『セヴェラルネス』2005、そして授業の建築史の内容(『実況 近代建築史講義』2017)がクブラー読みの結果としての間接的な産物でした。そのほかに三中信宏・中尾央編『文化系統学への招待文化の進化パターンを探る』2012において明治期工匠たちによる折衷建築・擬洋風(これは好適な題材!)をクブラーの系統年代(systematic age)理論で分析しました。なおクブラー自身がこれまでの批評に答えるかたちで、1982年に以下の小論を発表しているので、同書の基本的な疑問点を検討するのに役に立つと思います。(The Shape of Time Reconsidered”, Perspecta: The Yale Architectural Journal, vol. 19, pp. 112-121

31rB9R7y22L._SX340_BO1,204,203,200_.jpg

この本は読者の興味や状況に応じて、千変万化の効力を発揮します。今回私が最も興味があったのは素形物(prime objects、事物のシリーズの最初の位置に置かれる決定的な作品、「発端物」という訳も考えた)の生まれ方です。それは結局事後的に見出されるのではないかという批判が当然予想されるからです。個人的な読みではクブラーはそれをまず偏流(drift、サピアによる言語学用語, pp.122-特に124)+変異体(mutant, p.88)の組み合わせでクリアーしようとしたように思います。特に偏流は(本書の途中から出てくるにしては)重要な概念で、クブラーは私たちの格別の創作意識には関係なく、かたち自体が持つ周期的変化と説明しています(追記:少し筆をすべらせれば、伝言ゲームのような模倣過程による必然的なずれの発生をイメージします。もう少し言えば、模倣の飽きに由来するヴァリエーションの発生とか-招待状を沢山書かなければいけない書記が送ったその知られざる微細なヴァリエーションというクブラーの例えはとても面白いです。p.148)。その変化は系統に編年があることの裏付けであり、考古学的出土品の形態比較による年代判定(cultural clock)を思い起こすとよいかと思います。それはしばしば意味解読の際には余計な雑音や、通奏するうなり(ハム)にもなるわけですが、そのうなりが特定の閾を超えた時、伝達情報の組成に変異が生じて、チューニングがピシッと合ったように人々に対してその形態の意味が構成し直される時があると私は考えます。「内容+ハム」(単なる周波数の重なり)が「新しい内容」(有意な音)として同期し受け止められるプロセス、これprime objectsの誕生ではないのかな、と思います。クブラーのパルテノンprime object説(pp.90-92)を読むとその思いを強くします。そしてこれは事後的というよりは、そのつど、諸作品との生きた比較行為を通して、次代の制作者が抱いた過去への挑戦として形成されてきたのだと思います。当然ですが、つくる人は同時に見る人でもあります(芸術家が単につくる人だという大きな誤解をしがちなことは常に諌められるべきです)。これは本書のあらゆるところで強調されています。この状態によって過去の事物が芸術家たちと有意に情報をやりとりする事物のシグナル(signal, p.50)からシークエンスの生成(p.74)もようやく成立します。これによって時のかたちは紡ぎ出されるのではないでしょうか。以下二つ個人的に思い当たった例を紹介します。

例1)これprime objectかも?と思い直した個人的経験を解説します。本来は視覚的に感知しうる形態について紹介するべきなのですが、音楽(ドラムの音作り)についての話です。スネアのリバーブ(残響)を途中で断ち切って、まるで鉈を下ろしたような迫力ある音にする手法をゲート・リヴァーブ (Gated Reverb)といいます。その牽引役だった音楽プロデューサー・スティーブ・リリー・ホワイトによるその登場(=完成)は、ピーター・ガブリエルの『III』(1980)においてです。しかしその一年ぐらい前からスティーブの音作りがだんだんと変わっていることに気づいていた当時の私(レコード屋のアルバイト高校生)は、その連続的発展であったはずのその音作りの存在意義が、ピーターのアルバム上で全く変化したことにびっくりした記憶があります。それ以降この手法はチューニングがずれていくように次第にその特別な意味を薄めていきました。こんなように色々と自分の知覚経験と重ね合わせて考えてみるのが一番面白いと思います。ゲート・リヴァーブ誕生前後の音を確認しておきます。いずれもスティーブのプロデュースです。

XTC – Making Plans for Nigel – Drums and Wires [1979] 別のチューニングです

Peter Gabriel – INTRUDER – III(1980) ゲート・リヴァーブの誕生

Big Country – IN A BIG COUNTRY(1983) チューニングがずれた状態、その後廃れました

時系列できれいにその音作りの変化がわかりますが、ゲート・リヴァーブを別のシークエンスに取り入れ、その存在意義をさらに拡張してみせたのがジョン・ライドン率いるパブリック・イメージ・リミテッド(PIL)によるアルバム『フラワーズ・オブ・ロマンス』1981です。ちなみにこのアルバム制作の途中で、当初雇われていたスティーブは解任されています。彼のゲート・リヴァーブは換骨奪胎されてしまったのです。当時のジョン・ライドンの音作りの構想の大きさがよくわかります。PILはこの時が頂点であり、未到です。現在停止したシークエンス状態にあると思います。

PIL – FOUR ENCLOSED WALL – UNDER THE HOUSE – Flowers of Romance(1981)

例2)別例をもう一つ挙げます。ジャレド・ダイアモンドが編集した『歴史は実験できるのか』邦訳2018の第1章「ポリネシアの島々を文化実験する」(ジェイムズ・A・ロビンソン)です。ここにおいてポリネシア諸島に広がったココナツ削り機のオリジナル探しを、語彙、意味、形態(転用物含む)の変化による分析「トライアンギュレーション」(かたちが指し示す時空間を決定するには三つ以上要素が必要という示唆とも言える)という方法で行なっているのですが、それぞれが持つ偏流(drift)とそれらの系統年代(systematic age)の組み合わせを想定した方法です。これもまた、prime objects探しにかなり接近しているのではないかと思います。

質問をいただいた某教授は、以前からこの著作の重要性を認知していた人物で、おそらくどこかでその方なりの厳密な「解題」が登場してくるかと思います。その際にはまたおしらせします。良い年をお迎えください。

 

カテゴリー: Publications, Uncategorized | 2件のコメント

原稿を長く書く方法(卒業論文など初めての論文作成の一助として・お試し版)


まず論文を書く作法については佐藤守弘先生の「学術論文を書くために」がとてもわかりやすいので推薦します。

また論文とは何かについて簡単に紹介した私のガイドもありますが、かなり古いので参考程度に確認してください。

ここでは、長い論文(ただし自然言語用)を書いたことのない方のために、より長く論文を書く方法を紹介します。以下二つ留意点があります。

・これは私が修士論文の時に個人的に編み出したと思っている方法ですが、月並みなものだと思います。なぜなら「本文を書く前に目次をまず書け」といわれる理由の根源になっている方法だと思うからです。あるいはアウトラインモードで原稿を書く方法そのものです。

・ここで紹介する方法は、論文を長く書くことを推奨するものではありません。論文は要領よく短くスマートに書くことの方が良いです。しかしながら長く論文を書いたことのない状態から、長く論文を書ける方法を知ることは、事象を丁寧に記述し、さらにそれを短くまとめ直す訓練として適していると言えます。

それでは進めます。書くべきトピックをとりあえず「カッパ巻き」にします。辞書で紹介されている説明よりも桁違いに長い「カッパ巻き」とは何かについての中編程度の論文を書きます。(なお参考文献や注の付け方等は他のガイドで検討してください。)

このトピックを書くにあたって卒業論文生に「カッパ巻き」で書くべき項目をあげてみてくださいとリクエストしたところ「ノリ」「きゅうり」「コメ」「」「巻く」などのサブトピックが出てきました。彼らの提案から類推するに、「カッパ巻き」という大見出しは、以下の中見出しに分解することができます。

  • カッパ巻き
    • 定義
    • 用いる素材
    • 調理方法
    • 備考
    • 小結(必ずつけてください)

ここに学生からもらった項目なども勘案しつつ小見出しまで作ってみると以下のようになります。なおこの小見出しはあくまでも例です。ここでの中見出し、小見出しはこの論文の独自性を構成する重要要素なのでまずは自分の興味やこだわりに従って決めてください。さらにその小見出しのトピックに見合った必要と思われる原稿用紙(400字詰)枚数を見出しごとに書いてみます。私は酢に少しうるさいので、ここに6枚を費やす覚悟を決めました。また巻きすを使った巻き方は、それを読者にわかってもらうためにはやはり6枚は必要ではないかと思いました。逆に海苔についてのうんちくはあまりないので2枚にとどめました。そのほか架空で書いておくべき項目を考えてみました。

  • タイトル:カッパ巻き
    • はじめに(定義と目的と方法) 2
    • 用いる素材
      • 適した海苔 2
      • ジャポニカ米 4
      • 夏のキュウリ 2
      • 食酢として適しているもの 6
      • 醤油か塩か 2
    • 調理方法
      • ご飯の炊き方 2
      • 巻きすでの巻き方 6
      • 最後の仕上げ 2
      • 切り方ともりつけ 4
      • 片付け 3
    • 備考
      • その歴史・なぜ「カッパ」か 2
      • 世界へのカッパ巻きの進展と課題 2
      • 美容への効果 3
      • 健康上気をつけたいこと 3
    • 小結(必ずつけてください) 4

もうここまでで執筆計画上必要な枚数は、49枚になっています。これがカッパ巻きというトピックを使って長い文章を書く方法です。つまりカッパ巻きというのはある要素群で構成された特定の組み合わせなのですが、これを要素ごとに分解すると、実はその要素はカッパ巻きよりむしろトピックとして大きくなるというのがミソです。またこの分解方法は、自分のカッパ巻きについて当然と思っている認識が相当偏ったり、省略していることを気づかせてくれます。カッパ巻きをこのように分解して、それを成立させている広大な時空間をまずは味わい、その後、それをより吟味してスマートに再構築すれば、著者独自のカッパ巻き論ができるはずです。そのために必ず、小結を書いて、カッパ巻きを再定義してください。いかがでしょうか。

*第1校投稿後、・備考>その歴史に「なぜ「カッパ」か」という副題を思いついて追記しました。原稿量は2枚で変えないようにしましたが、なぜ「カッパ」か?について真剣に答えようとすると、最低4枚はさらに書けそうです。またこのトピックは面白いのでスピンアウトさせて独立して書いても良いでしょう。項目を洗い出していくと、さらに新しい項目を発見することができるので、とりあえずこのトピックの分解方法は生産的でもあると思います。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

述語化するランドスケープ・石川初著『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い 歩くこと、見つけること、育てること』の紹介


石川初著『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い 歩くこと、見つけること、育てること』は石川氏が都市や地方で出会った、環境にかかわる具体的な事柄や経験を、独自に再定義した本である。
ようやく野良仕事(フィールドワーク)を終えて、その経験を振り返るように、机に向かった氏の日常をひしひしと感じる。そこでの省察は丁寧に書き込まれ、読者を決して置き去りにしない。タイトルにあるように、歩いた時のこと、見つけた時のこと、それを反芻しつつ著者の内部で育てられた時間など、複数の視点が重なり合って奥行きのある言葉が生み出されている。私感ではあるがその美点を紹介したい。

■美点となる書き方
この本は読んでいて心地よい。それは著者の書き方、筋道の付け方が丁寧だからである。建築すらその説明が難しいのに、さらに難しいであろう土木工作物を、まるで読者が「見てきた」(「読んだ」ではなく)ように思わせるその優れた叙述の例を以下に挙げる。人工的に形成された平坦な土地であっても「地形」が存在することの段階論法的な説明箇所である。番号は便宜的にふった。

1
地面に降った雨水は地表を流れたり、水たまりをつくったりする。水が流れるということは、そこがどちらに傾いた地形をなしているということであり、水が溜まるということは、その部分の地面が周囲よりも低い地形をなしていることを示す。
2
そのように見れば、たとえ人工物で覆われた都市にあっても、私たちの足元には地形が豊かにある。注意深く平坦に作られた舗装道路でも、薄い排水のための微かな勾配がつけられている。多くの車道では、排水は車道の両端に集められるように設えられている。
3
つまり道路は中心線に尾根を持った地形である。道路の両端には側溝が設けられ、車道と歩道の勾配は側溝に向かっている。…

「地形はどこにあるのか (第4章 地形と移動)」

私たち読者は、この叙述にわずか1センチメートルに収まる山系、水系の劇的な風景を感じることができる。本書はこのような環境要素のあざやかな把握に満ちている。彼ならではの経験と記述のフィードバックの回路がそれを可能にしている。そしてこの回路が、私が石川氏と野良仕事(フィールドワーク)をしている時に、常に彼の作業や言動に感じることそのものである。目次と各章の概要も紹介しておきたい。

■目次と各章の概要

  • 1章 FAB-G(ファブじい)
  • 2章 公園の夏
  • 3章 農耕の解像度
  • 4章 地形と移動
  • 5章 ベンチの攻撃
  • 6章 土木への接近
  • 7章 終わらない庭仕事
  • 8章 ランドスケープの思考

山間部に居住する老年層による器用仕事(ブリコラージュ)とその資材性(レヴィ・ストロース)を紹介したのが1章「FAB-G(ファブじい)」である。コンクリート片を切石のように積んだ石積みなど、日常の中から光る取り合わせを見出す石川氏の目が冴え渡っている。
2章「公園の夏」では複層の社会的ルールによって区画・意味付けされた空間として都市空間を規定し、「その他」の土地として規定された公園の潜在的可能性を論じている。
3章の「農耕の解像度」では極大から微細なスケールまで貫徹する大地の工学的原理(数センチでも堰は堰として機能する)の強靭な持続性を、農地化された古墳や、形態はそのままに水田化された平城京の大路の発掘例から論じている。
4章「地形と移動」では、これまであまり可視化されなかった微地形が、都市デザインの裏側でいかに深く効いているかを指摘している。密やかな先行形態論。
5章「ベンチの攻撃」では、座ること「しか」できなくなったベンチの持つ、行為への排他性から現在の都市空間の性格を論じている。
6章「土木への接近」では、土木工作物と日常生活とのスケールの乖離、違い、再遭遇を読み解く基準としてあげ、土木物の再定義を新たに試みている。
7章「終わらない庭仕事」では潜在自然植生(宮脇昭)の観念性を批判しつつ、日常的な造園作りが、人間も含めた都市内生態系(雑草、動物、人間、アスファルトなど)の諸要素間のプチ闘争とその持続する成果としてあること。それを、自宅の庭造りの例を通して紹介している。
終章の8章「ランドスケープの思考」では、ランドスケープおよびランドスケープ・アーキテクチュアの語源的不明瞭さを指摘しつつ、ランドスケープを作る(設計する)ことと、育てる(維持する)ことの間にある時差をふくめて、環境の最適化を不断に試みるものとしてそれらを再定義している。
なお上記概要は当方の読み方を強く反映しており、読者に応じてもっといろいろな読まれ方があると思う。

■述語としてのランドスケープ
終章ではランドスケープならびにランドスケープ・アーキテクチュアそのものの再定義を試みている。それがメインタイトルである「思考としてのランドスケープ」につながっている。その用法の説明を読んでいて、ランドスケープが名詞のみならず、形容詞だったり、ひいては動詞として用いられていることに気がついた。
https://ejje.weblio.jp/content/landscape
ここでarchitectureの翻訳語が、明治中期、「造家」から「建築」に変更されたことを思い出した。
本書によれば、landscapeも「造園」と翻訳されたのだという。
architectureはもともとは「造家」で、landscapeは「造園」である。どちらも述語(造)と目的語(家、園)で構成されている。その成り立ちも言葉の構造も似ている。おそらく出所は幕末・明治初期の同じ人々、組織だろう。
いずれも「〜を造る」という創造概念がはいっているが、architectureを造家と翻訳することは、当時まだ若手だった建築史家・伊東忠太によって批判された。伊東は「家」というこじんまりとしたまとまり方を嫌ったのである。そしてどちらかというと技術用語であった「建築」を、よりふさわしいものとして選んで、皆がそれに共感したのである(参考:現代語訳「アーキテクチュールの本義を論じて、その訳字を選定し、わが「造家学会」の改名を望む」)。「建築」は建て築くという動詞のみで構成された用語であり、主語も目的語もなくなってしまった。しかしその不在によって「建築」は社会で次々に現れてくる要素をドライブし、つないでいく述語として完成を見たのである。確かに造家より建築の方が、その駆動力において優れている。
石川氏は最終章においてランドスケープという言葉を総括している。その翻訳語としての造園に多少の愛着を感じつつも、伊東忠太のみが120年ほど前に気づいてしまった、身の回りの総合的な形成にむけて、彼の活動を移行させようとしている。その時に武器になるのは、石川氏がこの本でたくさん描き出した、風景を把握し、それによって環境をさらに形作る、行為としてのランドスケープである。それはここでの文脈で言えば、意識的に述語化したランドスケープである。石川氏特有のスケールの動かし方、ずらし方は、つまりランドスケープの動詞的側面なのだ。

彼はランドスケープを語るのみならず、書くことでランドスケープしている。

書誌情報
思考としてのランドスケープ 地上学への誘い ―歩くこと、見つけること、育てること 単行本(ソフトカバー) – 2018/7/20日発行
石川初 (著)、LIXIL出版発行、企画・編集 飯尾次郎(スペルプラーツ)
ISBN978-4-86480-038-9 C0052

1章 FAB-G(ファブじい)
100均の工作者
ハイブリッド石積み
サル追い装置
FAB-Gのスキル

2章 公園の夏
プレイヤーが見えるゲーム
ルールのレイヤー
地上の論理
公園の地割り
ローカルルールとしての例外条項

3章 農耕の解像度
里山古墳
農耕の解像度
遺存地割の解像度

4章 地形と移動
地形はどこにあるのか
地表の定義
見えない地形
地形を見るツール
移動すること、地図師になること

5章 ベンチの攻撃
震災時帰宅支援マップ
都市の登山地図
生存への移動
街路からの都市
ベンチと向き合う

6章 土木への接近
高速道路の表と裏
土木構造物の外側と内側
二つの異なる土木受容
団地に見る土木

7章 終わらない庭仕事
制度としての植物「造園」
行為としての植物「園芸」
都市の自然「雑草」
「園芸」としての庭
日曜大工の規範
「縁側」としての庭

8章 ランドスケープの思考
ランドスケープ・アーキテクチュア
造園
ランドスケープ
思考としてのランドスケープ

カテゴリー: Publications, Uncategorized | コメントをどうぞ

「映画と大地の間にあるもの 『柳川掘割物語』その後」 雑誌『ユリイカ7月臨時増刊号 高畑勲の世界』に掲載されました。


雑誌『ユリイカ』の編集部から連絡をいただきました。逝去された高畑勲が監督した『柳川掘割物語』1987公開(DVDで発売中)について書いて欲しいとのことでした。

yuriika_fixw_640_hq.jpg

恥ずかしながら全くこの水濠地域を描いたドキュメンタリーを知りませんでした。実は柳川にも行ったことがありませんでした。とりあえずDVDを見てびっくり。埋め立てられようとしていた掘割再生に関わる人々の活動を記録しているのですが、2月の寒い時期に行われる水抜き一斉ヘドロ掻き出し作業での地域の人々の様子などまさに格闘。また有明海を控えて干満によって毎日海面下に没する沼地を人の住むように灌漑した結果の特有の田園風景が記録されていました。え、こんな場所日本に残っていたのかと思い、教育的効果も高いため数名の志願学生と一緒に柳川調査を私たち自身も行いました。

テーマは、高畑が記録した地域活動や水濠の風景が今でも健全に残っているのか、変わったとしていたらどのように変わっているのかという変容調査です。高畑たちが記録した地域活動の大変さが今でも続いているのだろうか。その現在を見たかったわけです。

その結果は是非『ユリイカ』本誌にてご覧いただければと思うのですが、少し興味を抱いてくれるように以下余談を書いておきます。

まず泊まった旅館ですが、朝食用の座敷に通されるとそこに高畑勲が描いた色紙が同映画の撮影監督高橋慎二氏の色紙とともに長押上に乗っかっていました。いつものその土地らしい旅館を探すのが幸いして、どうやら高畑ら一行も泊まった旅館に最初から遭遇したようでした。こうなれば調査は早いもので、そのご主人に相談して、当時の関係者の方にもお会いしと、調査は縁の鎖を伝って行うことができました。(地元の旅館予約にネットで空きがありませんと言われても電話すれば少人数なら宿泊は可能なことが多いです)

lOOld.jpeg

さいふや旅館の長押の上の高畑監督による色紙(ぶれています)

ヒアリングに協力いただいた、さいふや旅館の内山耕造様、旧柳川藩主立花家の立花民雄様、柳川市産業経済部水路課の松永久課長、三小田祐輔係長には示唆的なお話や多くの情報をいただきありがとうございました。立花氏によると地元の上映会で公開した時には上映時間4時間を超えていたと言います。さらにその前にはもっと長かったとも。今現在私たちが見ることができるのは2時間45分版にDVDでは22分の終章が付録に収録されていますが、これはまさに終章なので欠かさずにご覧ください。

 

IMG_2423.jpg

有明海の潟の様子です。生き物が今生まれているかのような風景です

IMG_2427.JPG

さいふや旅館の看板です

DSC01806.JPG

旅館の横に併設されている喫茶室。確かに二馬力ぽいかも。

私が最後に感動したのは、柳川周辺の田園地帯の、初源的なため池をひきつぐ複雑な水濠の様子でした。柳川の体験は確かに地域教育に欠かせないと思いました。

DSC01803.JPG

カテゴリー: Publications | コメントをどうぞ

『動く大地、住まいのかたち プレート境界を旅する』が2018年日本建築学会著作賞をいただきました。


『動く大地、住まいのかたち プレート境界を旅する』(岩波書店2017)が2018年日本建築学会著作賞をいただきました。公式発表ページはこちらです。

受賞は、自分の苦労や喜びの内実が他者にも通じるものであったことが確認できるのでとても嬉しいことです。どなたかを存じ上げることはできませんが、今回の選評にとても励まされました。

これまでの比較建築史が、国家の枠組みや情報量に左右され、対象の選択が恣意的になりがちであるのに対し、本書ではプレート境界という地学事象を方法上の根拠にしており、社会的な恣意性が排除された斬新な切り口が提示されている。そもそもプレート境界に沿ってユーラシア大陸を横断するという試みを実践した建築学者は皆無であろう。言語も文化も気候も多様なこの地域を横断するという発想自体が驚異的だが、筆者は躊躇なく出かけ、余所者の入り込まない奥へと踏み込んでいく。生活に深く分け入るその体験に裏打ちされた叙述は、新鮮な発見に溢れた優れた比較文明論ともなっている。

本書は地球の地殻を構成しているプレート境界に特有な環境形成とそこでの建築文明や住文化との密接な関係を、現地訪問と文献調査を併せて報告した建築論的旅の記録です。

執筆の発端は東日本大震災発生一ヶ月後の被災地訪問からでした。土地が沈んだ現場に立ち尽くし、日本以外のプレート境界地域でも同じようなことが起こっているのだろうかと、ふと考えたことから始まりました。
その後様々な種類の地図を買い集め、日本も属するユーラシアプレートの境界が、東南アジア、インド、イスラム、地中海、アフリカの諸地域を横断しジブラルタル海峡にまで達していることを確認しました。にわか勉強を始め、古代文明の多くがプレート境界付近で発生していることにも気づき、破壊のみならず地殻活動の創造的側面を意識し始めました。プレートテクトニクスが新たな建築的意味を持って現れてきました。準備期間中に教えを乞いにいくと、無謀な計画を心配して同行してくれた先行研究者が複数登場しました。現地での会話は新たな発見に欠かせぬものとなりました。たくさんの記録をとりました。このブログにも途中、現地から送った記録などが残っています。

本書は、当方の思いつきをきちんとした活動に育ててくれたたくさんの人々や関係機関による、とうとい協力の賜物です。本書のあとがきにも書きましたが今でも思い出すのは、土地土地の激しい風景を一緒に経験したそんな人々の姿や声です。
そしてそもそも地球自体が人間に建築活動をうながした、大いなる建築活動であったことを身を以て知ることとなりました。

2-0-7. ヤズド(Yazd)周辺で撮影した山の景色。二つの山の円弧が繋がったカーブを構成している。.jpg

この活動の記録がこれからも特に若い人々に受け容れられ、読み続けられることを強く願っています。

以下に同学会からの求めに応じて作成した概要を置いておきます(途中現地動画あり)。

カテゴリー: "On the Edge Tour 2013", Publications | コメントをどうぞ

「トマソンとまちを歩こう!」3学期第1回べてぶくろカレッジ2018年3月31日(土)開催!


街にひそむ無用の事物(=芸術の位相)を暴き出してしまった「トマソン観測センター」(創立約35周年!)が、精神障害や生きづらさを抱えた当事者の活動拠点・「べてぶくろ」主宰の講座にワークショップ講師として参加します。事物と人間内部の無意識を探索、共に生きる両組織がジョイントした歴史的快挙です。

文京狭小純粋階段001

文京狭小純粋階段  撮影:鈴木剛

昨年べてぶくろより「何かまち歩きの…」と講座を依頼された時、瞬時にしてトマソン観測センターの方々の顔が浮かびました。打ち合わせを続け、本日だいたいこれでいいのではないかというタイムテーブルを組み上げました。

実施当日は、トマソン観測センター、中谷礼仁研究室、トマソン的視点を身につけたべてぶくろスタッフが参加者の方と街に出てトマソン物件の発見、そして設営会場にて品評会やディスカッションを行います。発見があるように無理せずゆっくりと時間を組む予定です。生きづらさを抱えた人もトマソンやべてぶくろ(浦河べてるの家)に興味を持っていたプロフェッショナル、芸術家の方もぜひご参加ください。

基本情報はリンク先をご確認の上、フォームにて申し込みください。30から40名ほどの催行人数にする予定です。http://www.bethelbukuro.jp/?p=1220

IMG_1026

真剣に当日プログラムを検討する講師の顔ぶれ(左より向谷地愛(べてぶくろ)、煙突に乗られたあの飯村昭彦(トマソン観測センター)、中谷、鈴木剛(同観測センター現会長)

IMG_1025

三者合意に達した時の記念写真です(撮影はべてぶくろ)。有料で人数に限りがあります。1日を使った長いセッションです。もうないだろう今回の企画、ご参加の上、是非みなさんで深い理解に達したいと思います。

カテゴリー: Events, Lectures, Uncategorized | コメントをどうぞ

シンポジウム「野良道具/フィールド・デバイス 世界をつくる」 2018年3月10日(土)13:00-17:30


日本民具学会・道具学会・日本生活学会は合同シンポジウムをおこなっています。
今回は少し興味深いタイトルになりました。趣旨説明、登壇者、日時の詳細は以下をご覧ください。事前予約不要、入場無料、会員以外の方も参加可能です。20190310sympo2.jpg

●テーマ趣旨

野良道具/フィールド・デバイスは二つの意味を持つ。
「野良道具」という日本語は、大地に根ざした日常生活を具体化するための道具に聞こえる。
「フィールド・デバイス」と表現すると、それは野外における観察や計測に用いる器具のような意味が強くなる。いわば事物の客観化のための道具である。
それらは生活を具体化し、客観化し、そして世界をつくる両輪である。

2017年度の三学会共催シンポでは、生活に寄与する道具の使われ方のレンジを以上のように定め、様々な環境の中で用いられてきた、特色ある野良道具/フィールド・デバイスを紹介し、これからの生活空間と道具のあり方を探る。

●概要
進行は面矢慎介先生(道具学会会長)、特別講演に芸術、建築に造詣の深い石毛直道先生(文化人類学)を迎えます。
日本生活学会からは若手の松村悠子先生 (大阪大学大学院人間科学研究科 )が離島のエネルギー開発をレポートします。
日本民具学会の岩野邦康先生 ( 新潟市新津鉄道資料館・学芸員 )は稲刈り機と米生産の風景に焦点を当てます。
道具学会の高梨廣孝先生(元静岡文化芸術大学教授・プロダクトデザイナー)はオートバイを中心に据えて生活空間をはかります。精緻なオートバイの模型が複数展示される予定です。

テクノロジーの側面から生活を考えます。
http://lifology.jp/01/wp-content/uploads/2018/01/20190310sympo2.pdf

・基本情報

2017年度三学会(日本民具学会・道具学会・日本生活学会)共催シンポジウム
「野良道具/フィールド・デバイス 世界をつくる」
日時:2018年3月10日(土)13:00-17:30
会場:早稲田大学理工学部55号館N 1階会議室
入場無料・事前予約不要

カテゴリー: Lectures | コメントをどうぞ

P.I.Lの45rpm,12in.LP “Metal Box”をOnkyo GS-1で再生する


実は趣味のオーディオ関係のブログを誰にいうこともなくたまに書いてきたのですが、最近あるアイデアを実行できました。その方法がやや実験考古学的成果になったので紹介させていただきます。同年代(1980年代初期)にそれぞれ限界を尽くしたレコードとスピーカーを組み合わせるという実験です。完全に趣味です。

P.I.Lの45rpm,12in.LP “Metal Box”をOnkyo GS-1で再生する

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ