考察2• 自然の運動の前に立ち尽くし笑った。プレートテクトニクス際の旅イラン編最終回 – Long Architectural Journey along edge of Plate Tectonics, in Iran-


今まで紹介しなかったが、イランでは著名ないくつかの古代遺跡も訪れた。今回はそれらの立地条件と遺跡のbuildinghoodを考えてみる。主に以下の三つの遺跡を紹介する。

Persepolis
Choga Zambil
Takht-e Soleymān

●Persepolis
ペルセポリス、最も著名な世界遺産のうちの一つである。紀元前6世紀、当時一大帝国を築いたアケメネス朝のダレイオス一世が、支配地域からの貢納を受け入れるために建設した。社会儀礼的宮殿とでもいうべき特殊な施設であった。

前回の考察にて駆使したグーグルアースに色分けの地質図をのせたキャプチャ図を見るかぎり、ペルセポリスは白亜紀年代の地質の土地に建設された。白亜紀年代は石灰岩、大理石層が充実した地層年代の一つであり、実際現地で確認したところ、ペルセポリスの背後全体が巨大な石灰石・大理石の塊であった。

その量塊は切り出すのに好都合な大きさを自ずと持っていて、この宮殿建設の立地としてきわめて良好であったに違いない。

イランに行って、いろいろな石に触れた。こんなにさまざまな石に触れたのは生まれてはじめてだった。そのなかで石灰石、そしてそれが結晶化した大理石はやはり建築素材に最も優れていると感じた。一言で表現すると”あたたかい”のである。つまり多少のポーラスをもっていて、かつ、極度の圧力と熱を加えられたために変成化してしまった大理石さえも、ぎすぎすした感じがしない。それほど重くもない。つまり建設用途としての適度な硬度を持ち、加工可能程度に柔らかく、風化もしにくい。
石灰石の主要素は炭酸カルシウムである。これは石灰石に限らず、堆積土が堆積岩になる際にも重要な役目を果たす(これをセメント化作用というらしい)。
そして石灰から人間はセメント、コンクリートという一大発明物をとりだしたのだから、石灰石こそは建築の父といってもいい。一方、有機物を多量にふくんだ堆積土から作られた煉瓦はいわば母である。


石の移動によって建築が形成されたペルセポリス。建築の意志とは要は移動と構築なのだ。石灰岩の主原料は、遠く海底で堆積したサンゴ礁などの生物化石である。プレートテクトニクス運動によって、地表にあらわれ、人間に建築の契機を与えた。じゃあ化石もあるだろうと思って、ペルセポリス入口の基壇をさがしてみた。

ありました!海の生物の化石!

ペルセポリス付近にはほぼ同時代の遺跡であるパサルダガエがある。ここはペルセポリスと違って、交易のために造られた都市であったらしい。この遺跡で最も重要な遺構は、キュロス二世の墓と伝えられる、この大理石製の家型である。永遠の家型であり、それは墓であり、クラであった。建築の誕生を目の当たりにする思いであった。

Choga Zambil
先にも書いた通り、煉瓦は建築の母である。その偉大さを今回最もよく表わしていた遺跡がここである。深見先生によると、この名前は大きなバケツという意味とのこと。つまり発掘前、日干し煉瓦が再び自然に戻る際にジグラットが正体不明の大きなバケツとなって、まるでUFOのように、その後の人間たちに不思議を与えていたのであった。紀元前13世紀、その当時栄えていたエラム王国が作った巨大神殿である。現在、復原工事が終わり、その自然化した感じを残しつつ、往時の構築的鋭さも示唆している。優れた復原だと思う。

キャプチャ図で見るかぎり、まさにこの立地、煉瓦以外なにも生産できないという感じの土地である。しかし煉瓦と言う持ち運び可能な建築材料と多くの人々の動員によって現在でも高さ30mは残っている土塊が残っているのだ。周囲には自生の麦が生え、その間を野犬の母と子供が動き回り、僕のあとをついてきた。

Takht-e Soleymān
この遺跡は、今回訪れた中では、もっとも不思議なものであった。高所にあり、われわれが訪れた時も雪が降っていた。その中にこつ然と雪が残っていない場所があり、そこに円形の大基壇を持った遺跡があった。よく見ると横には、映画「未知との遭遇」にでてきたデビルズタワーそっくりの火山まである(こういうかたちを火山岩塔というらしい)。

この円形の大基壇の真ん中には直径約100mの泉がある。泳ぐなという看板がある。どうも泳いだ人が戻ってこなかったらしい。実は水深100m以上というからこれも尋常ではない。実はこれ火口湖なのであった。

その火口湖を城塞状に整形して創建されたのがサーサーン朝(紀元後226-651)で、その後国家が交替していろいろ作り替えられ何かに使われていたらしい。その後見捨てられて、20世紀初頭にイギリス人冒険家が飛行機で上空からこの遺跡を発見したというものだ。

キャプチャ図をみてもこの土地が火山性地質で覆われていることがわかる。「デビルズタワー」と併せて、この地球上とは思えない光景に感嘆するのであった。
さて、この使途があまりよくわかっていない遺跡の主要施設が何であったか、ピンときたので書いておく。勘なので真偽は不明だが、これは温泉である。

いく世紀もの間、不毛の土地の中で訪れた人々をよみがえらせた一大温泉である。その温泉が枯れたから見捨てられたのである。現在、ペルシアンブルーの湖面は他からの湧水によってまかなわれているのだが、その水も温かく、硫黄のあともはっきり残っている。「デビルズタワー」も、その昔温泉がでていたと言う。つまり地下を通じて温泉が行き交っていた時代があったのである。

この遺跡をつくりあげたのは、まさに自然そのものであった。各時代の人間たちはその奇跡に寄りかかりながら、そのエネルギーを享受していたのだ。僕は、自ずとあることの圧倒的なエネルギーに立ち尽くし、笑いが込み上げてくるのだった。
深見奈緒子先生、素敵な行程をありがとう。奥山岳典さん、イランでの勉強頑張ってください。佐藤浩司さん、高床地図書き換えてください。

今回記事でプレートテクトニクス際の旅イラン編を終わる。次の地域、トルコ、ギリシャからジブラルタルまでの旅の準備に移ることにしたい。

rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、アーキオロジスト。早稲田大学建築史研究室所属、教授、千年村プロジェクト、日本生活学会、日本建築学会など。著書に『動く大地、住まいのかたち』、『セヴェラルネス+』など。
カテゴリー: "On the Edge Tour 2013", Uncategorized タグ: , , , , パーマリンク

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