述語化するランドスケープ・石川初著『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い 歩くこと、見つけること、育てること』の紹介


石川初著『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い 歩くこと、見つけること、育てること』は石川氏が都市や地方で出会った、環境にかかわる具体的な事柄や経験を、独自に再定義した本である。
ようやく野良仕事(フィールドワーク)を終えて、その経験を振り返るように、机に向かった氏の日常をひしひしと感じる。そこでの省察は丁寧に書き込まれ、読者を決して置き去りにしない。タイトルにあるように、歩いた時のこと、見つけた時のこと、それを反芻しつつ著者の内部で育てられた時間など、複数の視点が重なり合って奥行きのある言葉が生み出されている。私感ではあるがその美点を紹介したい。

■美点となる書き方
この本は読んでいて心地よい。それは著者の書き方、筋道の付け方が丁寧だからである。建築すらその説明が難しいのに、さらに難しいであろう土木工作物を、まるで読者が「見てきた」(「読んだ」ではなく)ように思わせるその優れた叙述の例を以下に挙げる。人工的に形成された平坦な土地であっても「地形」が存在することの段階論法的な説明箇所である。番号は便宜的にふった。

1
地面に降った雨水は地表を流れたり、水たまりをつくったりする。水が流れるということは、そこがどちらに傾いた地形をなしているということであり、水が溜まるということは、その部分の地面が周囲よりも低い地形をなしていることを示す。
2
そのように見れば、たとえ人工物で覆われた都市にあっても、私たちの足元には地形が豊かにある。注意深く平坦に作られた舗装道路でも、薄い排水のための微かな勾配がつけられている。多くの車道では、排水は車道の両端に集められるように設えられている。
3
つまり道路は中心線に尾根を持った地形である。道路の両端には側溝が設けられ、車道と歩道の勾配は側溝に向かっている。…

「地形はどこにあるのか (第4章 地形と移動)」

私たち読者は、この叙述にわずか1センチメートルに収まる山系、水系の劇的な風景を感じることができる。本書はこのような環境要素のあざやかな把握に満ちている。彼ならではの経験と記述のフィードバックの回路がそれを可能にしている。そしてこの回路が、私が石川氏と野良仕事(フィールドワーク)をしている時に、常に彼の作業や言動に感じることそのものである。目次と各章の概要も紹介しておきたい。

■目次と各章の概要

  • 1章 FAB-G(ファブじい)
  • 2章 公園の夏
  • 3章 農耕の解像度
  • 4章 地形と移動
  • 5章 ベンチの攻撃
  • 6章 土木への接近
  • 7章 終わらない庭仕事
  • 8章 ランドスケープの思考

山間部に居住する老年層による器用仕事(ブリコラージュ)とその資材性(レヴィ・ストロース)を紹介したのが1章「FAB-G(ファブじい)」である。コンクリート片を切石のように積んだ石積みなど、日常の中から光る取り合わせを見出す石川氏の目が冴え渡っている。
2章「公園の夏」では複層の社会的ルールによって区画・意味付けされた空間として都市空間を規定し、「その他」の土地として規定された公園の潜在的可能性を論じている。
3章の「農耕の解像度」では極大から微細なスケールまで貫徹する大地の工学的原理(数センチでも堰は堰として機能する)の強靭な持続性を、農地化された古墳や、形態はそのままに水田化された平城京の大路の発掘例から論じている。
4章「地形と移動」では、これまであまり可視化されなかった微地形が、都市デザインの裏側でいかに深く効いているかを指摘している。密やかな先行形態論。
5章「ベンチの攻撃」では、座ること「しか」できなくなったベンチの持つ、行為への排他性から現在の都市空間の性格を論じている。
6章「土木への接近」では、土木工作物と日常生活とのスケールの乖離、違い、再遭遇を読み解く基準としてあげ、土木物の再定義を新たに試みている。
7章「終わらない庭仕事」では潜在自然植生(宮脇昭)の観念性を批判しつつ、日常的な造園作りが、人間も含めた都市内生態系(雑草、動物、人間、アスファルトなど)の諸要素間のプチ闘争とその持続する成果としてあること。それを、自宅の庭造りの例を通して紹介している。
終章の8章「ランドスケープの思考」では、ランドスケープおよびランドスケープ・アーキテクチュアの語源的不明瞭さを指摘しつつ、ランドスケープを作る(設計する)ことと、育てる(維持する)ことの間にある時差をふくめて、環境の最適化を不断に試みるものとしてそれらを再定義している。
なお上記概要は当方の読み方を強く反映しており、読者に応じてもっといろいろな読まれ方があると思う。

■述語としてのランドスケープ
終章ではランドスケープならびにランドスケープ・アーキテクチュアそのものの再定義を試みている。それがメインタイトルである「思考としてのランドスケープ」につながっている。その用法の説明を読んでいて、ランドスケープが名詞のみならず、形容詞だったり、ひいては動詞として用いられていることに気がついた。
https://ejje.weblio.jp/content/landscape
ここでarchitectureの翻訳語が、明治中期、「造家」から「建築」に変更されたことを思い出した。
本書によれば、landscapeも「造園」と翻訳されたのだという。
architectureはもともとは「造家」で、landscapeは「造園」である。どちらも述語(造)と目的語(家、園)で構成されている。その成り立ちも言葉の構造も似ている。おそらく出所は幕末・明治初期の同じ人々、組織だろう。
いずれも「〜を造る」という創造概念がはいっているが、architectureを造家と翻訳することは、当時まだ若手だった建築史家・伊東忠太によって批判された。伊東は「家」というこじんまりとしたまとまり方を嫌ったのである。そしてどちらかというと技術用語であった「建築」を、よりふさわしいものとして選んで、皆がそれに共感したのである(参考:現代語訳「アーキテクチュールの本義を論じて、その訳字を選定し、わが「造家学会」の改名を望む」)。「建築」は建て築くという動詞のみで構成された用語であり、主語も目的語もなくなってしまった。しかしその不在によって「建築」は社会で次々に現れてくる要素をドライブし、つないでいく述語として完成を見たのである。確かに造家より建築の方が、その駆動力において優れている。
石川氏は最終章においてランドスケープという言葉を総括している。その翻訳語としての造園に多少の愛着を感じつつも、伊東忠太のみが120年ほど前に気づいてしまった、身の回りの総合的な形成にむけて、彼の活動を移行させようとしている。その時に武器になるのは、石川氏がこの本でたくさん描き出した、風景を把握し、それによって環境をさらに形作る、行為としてのランドスケープである。それはここでの文脈で言えば、意識的に述語化したランドスケープである。石川氏特有のスケールの動かし方、ずらし方は、つまりランドスケープの動詞的側面なのだ。

彼はランドスケープを語るのみならず、書くことでランドスケープしている。

書誌情報
思考としてのランドスケープ 地上学への誘い ―歩くこと、見つけること、育てること 単行本(ソフトカバー) – 2018/7/20日発行
石川初 (著)、LIXIL出版発行、企画・編集 飯尾次郎(スペルプラーツ)
ISBN978-4-86480-038-9 C0052

1章 FAB-G(ファブじい)
100均の工作者
ハイブリッド石積み
サル追い装置
FAB-Gのスキル

2章 公園の夏
プレイヤーが見えるゲーム
ルールのレイヤー
地上の論理
公園の地割り
ローカルルールとしての例外条項

3章 農耕の解像度
里山古墳
農耕の解像度
遺存地割の解像度

4章 地形と移動
地形はどこにあるのか
地表の定義
見えない地形
地形を見るツール
移動すること、地図師になること

5章 ベンチの攻撃
震災時帰宅支援マップ
都市の登山地図
生存への移動
街路からの都市
ベンチと向き合う

6章 土木への接近
高速道路の表と裏
土木構造物の外側と内側
二つの異なる土木受容
団地に見る土木

7章 終わらない庭仕事
制度としての植物「造園」
行為としての植物「園芸」
都市の自然「雑草」
「園芸」としての庭
日曜大工の規範
「縁側」としての庭

8章 ランドスケープの思考
ランドスケープ・アーキテクチュア
造園
ランドスケープ
思考としてのランドスケープ

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、アーキオロジスト。早稲田大学建築史研究室所属、教授、千年村プロジェクト、日本生活学会、日本建築学会など。著書に『動く大地、住まいのかたち』、『セヴェラルネス+』など。
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