「大地をふり払うこと」  本が出るまで全文公開『家の本性』(仮)第二部第二章


最近私にとって大きな意味を持った体験がありました。

・べてぶくろで当事者の友人たちと、その本拠地の施設改善プロジェクトを始めました。
・3月14日早稲田大学芸術学校校長鈴木了二のLIVE AT BANKART(一応最終講義)に出かけ、彼の小組織運動(ソシアリズム)論に感銘を受けたこと。
・3月21日早稲田大学建築学科中川武の最終講義にて、歴史の反復のなかの共同体の高次な蘇生について語られたこと(原広司・柄谷行人両氏と)
・3月26日山本理顕氏から、氏の新刊公刊を祝うパーティーのお誘いがあったこと。氏の岩波『思想』での連載のまとめで、連載中、アーレントの「人間の条件」の読みについて、何回か意見の相違を積極的にお手紙していたこと。
・4月4日鈴木一誌氏から、最近の仕事として古賀義章 写真・文『アット・オウム 向こう側から見た世界』が送られてきて、オウム・コミューンに対する驚愕が急にフラッシュバックしてきて狼狽したこと。ちなみにこの書籍は、あの事件を外からのみ知っている私のような人にとっては、内側から考えられるものとして重要な仕事です。

以上全てが、社会における集団のふるまいをめぐって考察すべき兆しでした。

何年たっても終わらない、家と共同体とについての書籍について、結び前の第二部第二章をver.1として公開する気になりました。執筆時期は2012年11月。サバティカル直前の焦燥した時期でした。読まれると「チャーリーズエンジェルス」の印象がまた違って見えると思います。
最後の章は、あるかもしれない構築へ向けて、べてぶくろでの改造工事について書きたいと思っています。
なお本全体の構成(予定)と第二部第一章はこちらに全文掲載しています

家の本性 第二部第二章

大地をふり払うこと

中谷礼仁

コミューンの家政学

家族(ファミリー)のみならず、いかなる共同体にとって、巷のクラブやサークルにいたるまで、その集まりの存続のためには、成員自体の維持・再生産を目指さざるをえない。その要件は二つある。まずは成員を生き長らえさせることであり、そのために生命維持の手段を獲得することである。さらには、そのシステムの継承者をつくりだすことである。そのためには理念を共有する人々を新しい会員として迎えるか、もしくはその共同体内部での男女による自然的機能としての性的活動とその所産としての子孫の誕生、訓育が必要となる。

さて、この二つの条件は、特殊な理想をめざした共同体、すなわちコミューン[i]ですら逃れることはできない。いや、むしろコミューン運営にとっては根底的な難問となった。

なぜ会員の維持・再生産という普通のおこないがコミューン、特にキリスト教的影響圏の中にある理想的共同体にあって難問となるのだろうか。

彼らにとっての目的は、端的には彼らの生活が楽園にかぎりなく近づくことである。しかし成員の維持・再生産には「はたらくこと」がつきまとう。その「はたらくこと」こそ、楽園追放後の原罪的刻印であった。はたらくこととは、すなわち「地から苦しんで食物を取ること」であり、そして「産みの苦しみと夫ヘの忠誠」(創世記第3章16節、17節[ii])だった。つまり彼らは彼らの楽園を維持する上で、はたらきながらその営みから如何にして離脱するかという人間生活の根本的問題に触れることになったわけである。さらにコミューン内における性活動をとらえるためには、それをむやみに「解放されたもの」としてではなく、このような「はたらくこと」、そしてそこからの離脱という命題とのつながりから取り扱われることがぜひとも必要である。彼らの究極的な到達目標は、同じく創世記を引き合いに出した以下のカントの言葉にいきつくだろう。

人間は、各人がどんな地位にあろうとも、すべて理性的存在者(引用者註:神のこと)との平等という関係に入った(『創世記』三・二二)。すなわち人間は、自らが目的であり、他のいかなる存在者からも目的として尊重せられ、決して誰によっても他の目的のための手段としてのみ使用されないという要求に関しては平等となった。人間が自分よりも上位の存在者とも無制限に平等であることの根拠は、まさに理性のこの点にあり、単にさまざまな好みを満足させるための道具と見なされるような理性にあるのではない。(「人類の歴史の憶測的起源」VIII-114)

いかなる他人をも手段のみとして扱わないこと。この理念は、共同体の維持・再生産の具体的な方法とは調停がきわめて困難な理念である。

アメリカ=楽園

本章では、アメリカにおける3つの象徴的なコミューンを検討することで、先の章で検討することとされた近代家族の宿題のひとつ、生産ーはたらくことからの解放のプロセスを問うてみたい。そして彼らの活動を支えた集住ならびに生産形態の差異を検討することが目的である。

もちろんコミューンと家族(ファミリー)とを同一視することはできない。しかしコミューンがときに「ファミリー」を名称として用い、そしてそれらコミューンが、既存の単婚制(「私有制の単元とみなされる歴史的一形態」)の批判によって成立してきたことも念頭に入れるべきだろう。彼らの多くにおける財産の共有や単婚制の廃止はまさにその批判の実践なのである。それゆえコミューンこそ近代家族の批判的一形態と考えうることも可能であろう。

また本書があつかう地域と時代においては多数のコミューンが存在する。19世紀から20世紀とは、近代家族とともに、その批判形態としての”コミューンの時代”ともいえるぐらいである[iii]。そのなかで特にアメリカを選んだのは、その大陸の発見当時の特殊性にかかわってくる。

 この島や、私が発見して情報を得た他の島々の住民は、男女とも生まれながらの状態で裸体で歩き回っている。ただ女たちの中には,木の葉か木綿であんだ網で局部を覆っているものもいる。…彼らは非常に正直で、そのすべての所持品を惜しみなく与えるので、本当にそれを目撃した人でなければ信じられないほどである。もしその所持品を求められたなら,決してそれを断らないばかりでなく、進んで分かち合い、まるで彼らの心を分かち合えるような深い情愛を示すのである。…そうかといって彼らは特に何かの信条を持っているわけでもなく、また偶像を礼拝しているわけでもない。ただ,彼らのすべてが、天には力と善が存在しているということを信じているだけだ。」Howard Mumford Jones, O Strange New World, Viking Compass, 1967, pp.15-16

このコロンブスの描写は、初期アメリカのインディアンについて記したものの中にも共通して見られるものであって、表面化されてはいないがはっきりと楽園のイメージを暗示していると、アメリカ人の心性を扱ったロバート・N・ベラーは述べている[iv]。この指摘は思いのほか重要である。つまり発見当初のアメリカ大陸は、楽園そのものの再発見として、当時のヨーロッパ人たちがうけとめたことを示唆しているからである。楽園は本当に存在していたのだ!と。これは当時、ヨーロッパにおいて迫害されていた新興宗教団体が、競ってアメリカ大陸をめざすことになった動機の一端を物語っている。それはすなわち本当の楽園への帰還なのであった。アメリカ大陸を切り開き、入植すると言うことは、実際に神に祝福された共同体をつくりあげることを意味していたのであった[v]

「行動・仕事・労働」と「聖化された労働(資本主義)」

これからアメリカのいくつかの歴史的コミューンの経営方法を検討していくにあたって、さしあたり有用なのは、いま「私たちがふつうに行っていること」の全体を問うたハンナ・アーレント『人間の条件』である。とりわけ同書で提示された人間の活動類型である。またその対極としての、ウェーバーが指摘した、資本主義的行為の宗教的合理化を可能にしたプロテスタントの倫理観である。いずれも著名なものであるが、本書の目的にしたがって、その要点をまとめてみたい。

まずアーレントは人間の生産活動を、労働(labour)、仕事(work)、行動(action)という大きく三つの段階に分けている。この三つの活動力が基本的だというのは、人間が地上の生命を得た際の根本的な条件に、それぞれが対応しているからであると彼女は述べる。

まず労働labourとは、人間の肉体の生物学的維持に対応する活動力である。つまり人間の肉体的生命と種としての人間の維持にかかわる活動である[vi]。たとえば単に(単に、にルビ)食事を作ること、単に(単に、にルビ)出産することがそれにあたる。いわれるがままにはたらき食事を与えられることも該当する。労働は人間の生物的側面の充足が目的であるので、理性にとって労働自体は意味を持たない奴隷的はたらきである。

それに比べて仕事workとは、人間として有用である(したがって生物的には不要な)目的をもった工作物を作るはたらきをいう。仕事は器づくりから神殿の建設にいたるまで、自然環境と異なる「人工的」世界を作り出す。そして作られた道具や、建築はそれを作った人間のサイクルを越えて、独自の永続性を帯びるようになる。このような仕事の性格をもって、アーレントはそれを労働の自然性と対立した世界性(worldliness)と呼んでいる。

そして行動actionとは、いきなり人前で唱えられた詩の美しさや、予見できない批判、企て、計画の発生といった、それ自体が目的になりうるユニークな状態の発生である。しかしながらそれはそれ自体としては残らず、その様子は仕事によって記録されるしかないとも述べている。この人間のはたらきの階梯は、コミューンにおける活動のあり方の構造としても流用できるように思われる。

一方のマックス・ウェーバーによるプロテスタンティズムへの解釈は、資本主義が過半を占める近代社会制度における代表的な心性として指摘されたものである。きわめて乱暴に要約すれば、蓄財を抽象化された隣人への奉仕の証=労働の証と同一視することで、本来的に富の蓄積と相容れなかった宗教的救済が連動しはじめたのであった。この連動は、いわば人間のために神があるのではなく、神のために人間があるという彼らプロテスタントの宗教的体質を、人間のために経営があるのではなく経営(資本)のために人間が存在するという資本主義的精神の肯定へと繋げた(荒井直)。「神」のための利益追求が目的となる時、人間の労働はここでは「救済のための」手段と化している。父は労働し、母は出産し、子供は家庭の内外で二重に使役される。プロテスタントにおける労働倫理はまさに資本主義社会をユートピアとする正当化であった。このような一連の資本主義精神に流れる「宗教」的合理化は、多くの宗教的コミューンにとっては、その外側から対立的に関係する経済全般の心性としてたちあらわれる。これから検討するコミューンが特に、性差や、子供の扱いに対して注意を払ったことを、資本主義的に聖化された労働との対立として検討することはあながち外れていない。この対立からは、コミューンへのプロテスタント的労働観の侵入がその崩壊の指標にもなりうるという予想が成り立つかもしれない[vii]

性を振り払うこと シェーカーにおけるコミューン経営の特質

シェーカー・コミュニティ(the Shaker community)は、イギリスにおけるクエーカー派キリスト教徒から1747年に派生したグループである。イギリス産業革命前夜の貧民あふれる都市・マンチェスターで結成された。彼らの信者の家における礼拝は、恍惚による激しい身体の震動や叫び、異音の発生、時には猛スピードで床上を移動するなどの行為を伴った。シェーカーという名はそのような彼らの振る舞いに対する侮蔑的名称であった[viii]。シェーカー・コミュニティについての日本での研究は少ない。藤門弘が1990年代初期に各地のシェーカー・コミュニティ跡と家具の製法を報告した書籍[ix]も重要であるが、ここで特に紹介したいのは穂積文雄という一経済学者による作業である[x]。穂積はユートピア運動に興味を持つ過程でシェーカー教徒の資料に遭遇し、早く1960年代初期にはそれらを渉猟し日本に紹介した人物である[xi]。また当時、シェーカー跡を訪問して貴重な見聞を残している。シェーカーの運営面については、主に彼の忘れ去られていた成果に従いつつ検討したい。

穂積はシェーカーをもってアメリカのユートピアン・ムーブメンツの初源としている。その理由は、その行動がきわめて「人為計画的」だからであるという。その規律は4つ、「ざんげ」、「独身」、「遁世」、「共産」である。彼らのコミューン運営の最大の特徴は、規則正しい日常生活と建設行為を伴うモノづくり、そして独身主義であった。奇妙なことに彼らは生涯独身をつらぬきつつも、男女による共同生活を行った。男女は共に同じ館で生活するが、その動きは厳格に建築的装置によって仕切られ、制御された。あらゆる性的接触は避けられた。その結果、共同体の維持のためには、常に信徒を外から迎え入れる必要性があり、盛期を過ぎ人口は減少し、20世紀後半以降、その活動は表面上停止している状態である。しかしいずれにせよ、シェーカーズというコミューンがその厳しさにもかかわらず運営期間1世紀を越えて3世紀をまたがり存続した。日本の明治時代から現在までの歴史より長いのである。これは驚くべき長期にわたって存続したコミューンであった。そこにシェーカーズ運営における特殊な「はたらき」が隠されていると思われる。

シェーカーズの基本的教義は、結成当初の時代にヨーロッパ各地に伝染した、天国がすでに実現しそれに見合った社会を構築しようというポスト・千年王国到来の機運に連動した内容と、そこに独身と言う具体的な実践行為を加えた二代目アン・リーによる戒律によってほぼ説明することができる。

彼らは言う。神のわざは、いま、シェーキング(震動)においてはじまった。それはキリスト教の完全な最後の顕現のための準備と増強とのためである。この特別の作用は、神が根底より震動し、人類の堕落したあらゆる組織と神のわざおよび生物の用と目的についての、彼ら人類の誤った観念を徹底的に粉砕しようとされることの意義あるしるしである。しかし、キリストの最初の降臨の結果は、これらの約束を充分にみたすにはいたらなかった。というのも、事実,震動されるべき世界がいまだ建設されていなかったからである。また,男性の形におけるキリストの降臨も、その目的をみたさなかった。しかしながら、第二の降臨は女性においてあらわされることになった。それは、永遠の母性からの放射であるところのキリストにおける母性の精(Mother Spirit Christ)の顕現によるのである[xii]

千年王国が到来した今、第二のキリストは女性によってなされるという彼らの待望論の中に登場したのが、二番目の後継者アン・リー(1736-1784)であった。その1世紀後エンゲルスがその窮状を告発したマンチェスター、そこの貧困層の鍛冶屋に生まれた彼女は子供の頃から奉公労働を行う運命であった。家族によって望まれた結婚生活の中で4人の子供を産んだが、いずれも夭折した。この相次ぐ子供の死は彼女自身の人生も投影しつつ、ー使役されるー子供をこの世にもたらした罰と彼女は考えるようになったと推測される。彼女はシェーカーズの一員となり、告発によって獄中にいた彼女は啓示を感得した。それは「人間は罪の子(man of sin)」であり、人類堕落の根源は最初の女の罪(the transgression of the first woman)によるものであるということであった。その堕落は神のあかしによって完全に感得された。それは堕落の根源としての肉欲に対抗するあかし(testimony against flesh)である。彼女は神からあかしを授かった者としてシェーカーズのソサエティーに迎えられ、女性性を持つ第二のメシア=マザーとなったのであった。うけいれられてから後も、彼らの公のあつまりにおける礼拝や勤行は、歌唱と舞踊・震動と叫喚・新しい予言をともなう談論を主とした。その結果、この運動に帰依したひとびとは、あらゆる会議・論争を超えて、これこそ地上における女性性としての救済者=新キリストの統治のはじまりであると確信したという[xiii]

この確信は現世のキリスト教と決定的に対立するものであった。迫害を避けるため、ついに彼女たち8人のビリーバーズ(註 シェーカー教徒が彼ら自身をさす名称)は1774年にアメリカへと移動した。1776年ごろより共同生活を始めるにようになったが、この約束の地においても周囲から迫害を受け続けた。国家独立の高揚のさなかでも彼らはクエーカーゆずりの非戦的態度を示したし、以前からの特徴的な「震動」的行為もたかまり、そして一番の問題はシェーカー・コミュニティへの新しい帰属者はこれまで彼/彼女が属していた家族を離脱するものでもあったからである。しかし18世紀後半、アメリカに移住したキリスト教信者たちに大規模な潮流として巻き起こされた宗教的回心運動「大覚醒」(a remarkable religious awakening)のさなか、アン・リーをキリストの再臨と考える人々が多くあらわれた。シェーカーたちは本拠をアルバニー州の北西の荒野に本拠・ウォーターブリートを設立。ニューヨーク州を中心に布教活動をすすめた。アンの死後も、指導者の後継は他のコミューンに比べてスムースに進められ、多くの改宗者を集め、1830年代にはアメリカ東部を中心とした19のコミューンを運営し、19世紀の最盛期には5000以上の入信者がそこで生活していたと言われている。

さて、最盛期のシェーカーズの運営形態を描写した教徒以外の著作により、その様子をまとめてみたい[xiv]

村は様々なバイナリー(二部法)によって分けられた二元世界であった。

まず初心者ファミリー(Novitiate Family)と教会ファミリー(Church Family)である。前者はまだ外部との絆を完全に断ち切っていない人々が住むところである。配偶者の一方が共同体に財産を寄付することに同意していないような場合である。後者は完全に世俗を離脱し、接触はシェーカーズのみで外部とは完全に断たれている。財産はすべて共同体に帰属している。

各々のファミリーはいずれも、独立・自足自給をたてまえとし、共同生活を営む。一つのファミリーには二人のエルダー(長老)がいる。一人は女性であり、もう一人は男性である。その下のいくつかの職位もすべて男女の対から成立している。職位にかかわらずすべてのメンバーは平等であり、その能力に応じてはたらき、利害を共にする。みな、なんらかの手のしごとに励み、例外はない。

住居は大規模な二階建てである。階上は4人ないし8人を収納する各室に別れている。各々の部屋には簡易寝台と、洗面設備、小さな鏡一つ、書き物机が一つ備えられ、冬にはストーブが備えられる。椅子はかなりの数があるが、使わない時はさかさにして長押のような横材にかけられている。広いホールが男女の寮をへだてている。階下は厨房、食器室、食料貯蔵室、共同食堂がある。すべての階における平面配置は男女の性差を表わすように厳格に対称形をなしている。男女の階段は別々に並列している。出入り口すら二つ。仕事場の建物は住居の周りにおかれ、仕事の種類に応じて建てられている。女性は縫製、かごづくり。男性はほうき、敷物、洗濯場、厩、果物小屋、機械工場、製剤所で仕事を行う。

4時半に起床すると右足をベッドから出さなければならない。その足が触れたところで右膝を落として、祈祷しなくてはいけない。祈祷の時間は限られていないが着替えの時間は15分なのでそう祈ってばかりもいられない。着替えは背を室の中央に向ける。その後椅子を二脚背中合わせにして、ベッドの敷布を一つづつはいで、ベッドに風を通し、敷布をたたんでいすの背にかける。よごれたものはしきもののないベッドの上におく。窓を開け、便器を室外に持ち出す。

6時になると朝食のベルが鳴る。男性も女性もホールに集合する。小さいベルの合図とともに男女の列を作り、男女それぞれ別の入口から入る。右の入口は女性用である。入るのは男性が先である。食卓は男女別。手渡しを避けるため4人ごとにならべられる。調味料は天井からつり下げられている。

靴は右からはく、手袋は右から、ズボンも右の足から通す。ダンスは右の足から始める。馬具は右の馬からかける(ということは左右に馬を用意するのだろうか?)。男性はマーチ風に、女性はつま先立ちで歩む。

住居内の整備は、主に外で先に挙げた重労働を担当する男性に代わって、女性が行う。これらは義務仕事(work duties)といわれる。女性は男性の世話をするが、その関係において対の関係が定められている。室の清掃ばかりではなく、衣料のめんどうをみ、つくろい、洗濯をし、きちんとしてない場合にはとがめる。

穂積の執拗な紹介から一部を抜粋してみたが、予想以上の規則性によって生活が律されていることがわかる。その規則が、男女差に起因するものである他に、清潔さもまた重要な要素であった点がうかがえる。特に彼らの清掃は完璧で床に一つのほこりもなく、直に食事が出来るほどであったと言う。さて、このようなジェンダーによるバイナリー法と異常にすら見える清潔さをどのように考えればよいのだろうか。

俗世のほこりを払うというが、ほこりこそ知らず知らずのうちにおしよせてくる、彼ら/彼女らにしても防ぎきれない罪の大地からの兆しだったのではないか。彼らの震動はその結成初期より罪深き世界を壊すものとしてあらわれ、それが身体を通じても顕現したものだった。その様子はきわめて破壊的なものであったろう。その震動(シェイク)はまさに罪を洗いこれまでの世を振り払う役目を実際にもっていたのだった。

大地は汚れている。それゆえにそのほこりを払ったシェーカーたちはそこから可能な限り、浮いていなければいけないのである。その意味でかれらにとって清掃は労働ではない。振動するかれら自身を保持する目的的なものだったのであるように思われる。もちろん前提としての生命維持のための労働作業は必要とされた。しかしその量は資本への転化を意識的に抑制することで、必要な量におさえられた。

ここまでは一般的な見解であるが、シェーカーをシェーカーたらしめているのは、このような罪の大地から浮くという意識が、彼らの工作の特徴にも連動し、結果として彼らの労働作業量を飛躍的に高めたことである。

彼らの作るものは彼らと同じくその接地面はミニマムにおさえられる。穂積は指摘する。「なお、ここでわすれてはならないことは、かれらは、この時代のあらゆる労働を節約する、もろもろの考案を、男性のためにも、女性のためにも、購入ないし建造していたということである。洗濯機、刈り入れ機、くっさく機、しごとばの諸設備等が、すなわちそれである。棒状のまるいのにとってかわったひらたいほおき、回転のこぎりの発明の功は、実にシェーカーの女性に帰せられている。」[xv]

シェーカーを貫徹する回転機構の重要性はすでに岡崎乾二郎が指摘しているところであるが、本稿にしたがえば、回転あるいは円形とは物体間の接触(接地)をミニマムにするデザイン方法として集約できる。それによって機構は抵抗少なく動き、結果として生産力を飛躍的に倍増させたのであった。彼らが水車から物理的仕事をとりださずに、直接的にタービンにつなげて電気を供給したことも、このような大地からの飛躍という命題がまず前提としてあったからである。彼らにとってみればそれは基本的な心がけだったのであった。

彼らが発明した効率の良いほうきによって、俗世のちりはとり払われた。しかしその結果としてどうしても残ってしまったものが彼らによる工作物であった。彼ら自身が彼らの目的のためにつくった道具や建物や工場である。結果としてこれは二つの側面を持った。

ひとつは男女差をあらわすような指示行為として。これはほこりと同じく、かれらがすでに振り払ったところのものを象徴している。彼らによる住居棟の厳格な対称形のデザインは、いわば建築として疎外された性差であった。彼らは男女差を疎外するために故意に出入り口を対称的に作りあげた。それは彼らを性差から逃すためであった。そして就寝中の彼らはベッドによってその俗世から浮いている。だから朝ベッドから降りたところで接地してしまった足は、彼らにとっては人間的労働の時間を告げる一瞬の変身である。その行為を懺悔をするように彼らはその足から祈祷を始めなくてはいけなかったのではないだろうか。

そしてもう一つが椅子とその掛け方に代表されるミニマムな接地を基本とした工作物とそのデザインである。そのシンプルさが好評を博すシェーカーによる家具であるが、その目的は前述の通りであることを見逃すべきではないだろう。先に紹介した彼らの日常に登場する道具たちが、如何に接地面を少なくするかに配慮が払われていることを知るとき、私たちは愕然としないではおれないだろう。たとえば彼らの発明品であるロッキングチェアも現在は単なる慰労のための椅子として用いられているが、そのデザイン方法はもっとも注目に値する。ロッキングチェアの大きな真円の一部を用いた底面は理論的には平行の床面に無限小的な線としてしか接地しないのである。これに代表されるようにシェーカーの家具、人間から震動をへて楽園へ到達しようとする彼ら/彼女らの用いる家具のほとんどはいわゆるピン構造なのである。

以上シェーカーの教義とビレッジの実践における「はたらき」との関連を見てきた。彼らの作りあげた独自の浮遊的あるいは回転的とでもいうべき仕事−工作物は、アーレントのいう「労働」と「行動」の間に、積極的に両者に働きかけるものとして存在していたと私は考える。それらは労働を軽減し、彼らをこの罪の大地の上での位置から可能な限り浮かせる役目を果たしたのであった。

そしてさらに、彼らの本来の目的である震動的運動”シェイク”によって開かれた真理を書き留める「はたらき」すらもたらした。その実際の様子は、本章の最後に紹介することとしたい。

5 オナイダコミュニティにおける「良品主義

さて、私は先にコミューンの変質をはかる指標として、はたらき、特に労働のありかたの変質をあげてみた。アーレントのギリシャ語源分析にもとづいた人間の活動観、それはいわばコミュナルな理念の階梯としても適用できる。で、あればウェーバーがあげた資本主義社会とプロテスタンティズムとを連結させることに成功した労働観はその階梯にたいするまさしく逆さ、対立的な主流として考えることができる。労働が神(資本制社会)への奉仕となるからである。そのような労働観がユートピアに湿潤する過程を次の問題としたいのである。これから二つのコミューンをあげる。まずは複合婚を実行したオナイダ・コミュニティである[xvi]

オナイダ・コミュニティは、人間にはもともと聖性が宿っているというパーフェクショニズムPerfectionismを主張した、元牧師ジョン・ハンフリー・ノイズ(1811-以降ノイズとする)を教祖とする宗教的コミュニティである。1848年に活動を開始し、内部対立後に1880年に解散したが、後継者の一部によって結成された株式会社オナイダ(Oneida)は現在においても銀食器のメーカーとして世界的に知られているところである。創設時は88人、最盛期において299人(1879年)の参加者がいた[xvii]

オナイダ・コミュニティに関する研究は乏しい。日本においての主な研究はわずか一冊と言ってもいい(倉塚平著『ユートピアと性ーオナイダ・コミュニティの複合婚実験』中央公論社1990年)。彼の原資料にあたったこの労作から、とくに「はたらき」の観点からコミュニティの特異性を再検討してみたい。

倉塚がオナイダ・コミュニティを理解する背景として述べるのはポスト千年王国説と言う同コミュニティ結成当時に主張されていた世界論であると言う。

「ところが後千年王国説になると、この時間関係が逆転する。それは千年王国実現主体が入れ替わったからである。主なるキリストが千年王国実現の決定的なアクターだったのだが、アメリカでは人間が千年王国をつくる主体になり、キリストはせいぜいその共同参加者になってしまった。」p.15

つまり千年王国は既定の事実として、実際の人間社会につながり、その主役はまさしく人間となるのであった。この傾向のもっともラディカルな一派がパーフェクショニズムであった。パーフェクショニズムは18世紀末の宗教リヴァイバル運動のなかで形成された。「熱狂的聴衆の中から、罪人でありながら信仰によってその罪の赦しをうるという正統的信仰形態から逸脱して、罪それ自体からの解放を求め、もはや罪を犯すことのない100パーセントの真の信仰者となったと称する」(p.22)パーフェクショニストたちがあらわれてきたのであった。この波を完全にくらったのが後にオナイダ・コミュニティの教祖となったノイズであった。二十歳過ぎに回心し、牧師への道を歩もうとしたが、彼の強迫的な完全さの追求によってパーフェクショニズムを説くようになった。自分がすでに無罪性を帯びた完全者であることも神秘体験の中で獲得されたと言う。そして禁欲主義を貫いてきた彼は一転して、婚姻制度を批判するようになった。1830年代の後半、ノイズはこう記している。

「神の意志が天でなされるごとく地でもなされる時、結婚は存在しないであろう。子羊の婚姻の祝宴では、どの皿もすべての客たちのものである。独占、嫉妬、喧嘩はそこでは起らない。…聖なる共同体では食べたり飲んだりするのと同じく、法によって性交が禁じられたりする理由はないし、同じくそれを恥じる必要もない。…私はある女を妻と呼ぶ。彼女は諸君たちの妻であり、キリストの妻である。キリストにあって彼女はあらゆる聖者の花嫁である。」p.43

そのおよそ10年後の1947年9月のパーフェクショニストたちの会合では、ノイズのさらに完成された主張を伺うことができる。

「われわれは、この世の大衆が置かれている孤独と利己主義を突破する道を切り開き、天地の前でこの世の家族関係や金銭関係を足下に踏みにじりうる地点に到達することができた。個別家族、排他的所有をわれわれは廃棄した。わが教会はこの世の制度とあらゆる点で対立する原理に立脚しているのである。」p.67

理念は自然を変える。この高邁な演説の前後、ノイズはパーフェクショニズムの理念をもって共同体内の性交渉を管理の下ではあるが複合的に行うことを試みはじめた。そして彼をリーダーとする88人はコミュニティ建設に着手した。彼らの複合婚の実践の噂によってそれまで生活していた村を追われたのであった。1948年のことだった。本拠地は元インディアンの土地・オナイダ、ニューヨーク州。

オナイダ・コミュニティを物語るもっとも有名なシステムは先にも述べた複合婚である。それを可能にさせたシステムがメイル・コンティネンス(男性側の自制)であった。ノイズはパーフェクショニストとして人間の性愛を天上の愛と同様に認めた。それゆえに男女の性交渉も大いに肯定されることになるが、大きな問題が残った。前章でエンゲルスが空想の科学者と化した出産ー子供の問題である。出産の苦しみは人間に与えられた報い、原罪の一つであったからである。と同時に、女性を単に手段として使う可能性のある性交は絶対に避けられなければならなかった。しかしメイル・コンティネンスによる射精の抑制によって、女性は上記の問題から解放され純粋な「愛」の交流のみの性交渉が可能となったのであった。もちろん興味本位の性的機関としてオナイダを考えた訪問者はコミュニティからその入会を固く拒絶されたという。

コミュニティでは子供を含めすべて共有財産であった。子供を私有することは私有制の萌芽でもあったからである。14、5ヶ月が経過すると子供たちは母親から切り離されて、男の子は12歳、女の子は10歳まで「子供の家」で生活した。1851年ノイズ夫妻の最初の性的パートナーの一方であったメアリが、子供たちが手作りの人形をかわいがっているのを見とがめて人形の焚刑式が催されたという。これもまた特定の人形を愛することが独占欲の萌芽となることを懸念したからであった。

以上のように「自由な性交渉」「子供の共有制」もすべてが原罪をすでに克服したポスト千年王国の天上の生活を運営するという強い宗教心をもって行われたことが理解できるだろう。これらのシステムは当然、コミュニティの運営にかかわることである。つまり冒頭で当方が提起したように、性の営みですら神に近づきつつある人間としての「はたらき」として検討する必要があり、当然それはオナイダ・コミュニティの運営にかかわる労働一般の特性にも関わってくる。

財政の厳しかったコミュニティの財政を救ったのは一人の鍛冶屋とその発明品であった。妻にしたがってついてきたその男は、オナイダ湖周辺で狩りの名手であった。彼は当時の罠の残酷さに心いため、動物をより痛めないスプリング付きの罠を発明した。コミュニティは彼からその製法をなんとか聞き出し、1855年から大量生産化に踏み切った。この罠はアメリカとカナダの市場を独占するまでにいたった。この罠の成功によってコミュニティの運営資金は一気に潤沢なものとなった。ここで先に紹介した倉塚はコミュニティ内における労働の変質に気づき特に章を割いている。つまりその後、コミュニティ内で花開くことになる「楽しい労働」は、実はコミュニティが他の場所で経営するところの工場に雇われたコミュニティ外の労働者たちによって成立したのである。つまり「楽しい労働」は外部の賃労働と言う奴隷的労働によって成立していたと言うことである。コミュニティ内部においても外部の人間を手段とすることに対して反対の意見があがったが、結局はこのアーレントの描いたギリシャ的労働の鏡のような「はたらき」の階層構造が現実のものとなったのであった。しかし外部の労働者たちには馬車による送迎など当時としては破格の待遇があったという。倉松は次のように指摘する。

「ノイズの技術革新信仰も近代的合理的工場を欲したわけではなかった。彼は「賃労働は奴隷労働よりちょっとよくなっただけだ」といい、家庭が崩壊し冷ややかな会社となり大量の孤独な群集が出現した時、そのような経営もまた出現すると見ていた。神からの人間の疎外、人間同士の疎外の結果なのである。だから彼はオナイダ・コミュニティを小さなエゴイズムに凝り固まった小家族の集合の代りに、性と財産を共同にした一大家族にしようとし、それをファミリーと呼び、自分は家父長をもって任じていた」倉塚「第5章 オナイダ・コミュニティの日常生活」『ユートピアと性ーオナイダ・コミュニティの複合婚実験』中央公論社1990年

すでにエンゲルスやハクスレーが空想した社会が外部的労働生産を基盤にすることによって成立していた。潤沢な運営資金を得た彼らの「はたらき」の特徴を簡単に述べると、単調な毎日のリズムをくずすための起床時間の突発的変更などの「律法主義への奇襲」、好意を持った男女ペアによる労働、厳格な職場規律の不在、休憩時間にダンスなどを含んだスポーツ的労働などである。一般的な労働時間は平均6時間であったという。またすでにパーフェクショニストであるがゆえに宗教儀礼は廃止された。毎日が聖なる日であったのである。当時コミュニティを訪れたジャーナリスト、チャールズ・ノルドホッフによる実現した楽園にたいする以下の皮肉は痛烈である。

「特に印象的だったことを語れというなら、このコミュニティは平凡でつまらないということだ。怒らせることになるかもしれないが、この狭いコミュニティの中に満ち足りて閉じこもっている人々の生活に対して、これ以外の印象をどうして持つことができようか。彼らの宗教教義はいかなる内的闘争をも要求していない。ひとたびコミュニティの中に入ると、ほとんど自己否定などなくなってしまう。彼らはいい食事をし、飽きるほど楽しみ、働きすぎることもなく、将来の生活を心配することもない。ひとたび徹底的に目覚めたら、彼らはコミュニティから出て行くだろう。」p.98

まるで一世紀後につくられたドラマ『プリズナー No. 6』のようなディストピアであったともいえるだろう。

1878年に潤沢な資金によってつくられたニュー・マンション・ハウスはまるで同ドラマのひな形とでもいうべき非在的な楽園性を漂わせている。1848年に建造されたオールド・マンション・ハウスの寝室はテント部屋(Tent room)と呼ばれメイル・コンティネンスによって女性を高みに上らせていくまるで薄い蚕小屋のようであった。しかし新しいマンションハウスは建築教育を受けてきた成員によって設計された豪華なものであった。今でも現存するそれの平面図を見ると古いマンションの異様さは減少しており、寝室は仕切られつつある。それはあたかも子供の頃から終生をおくる設備完備の「老人ホーム」のようでもあった。

この新しいマンション建設の背景には1868年に有性生殖が開始されはじめたことがあった。それは優秀な子孫を残しコミュニティの運営を担当させるため、委員会がカップルを決定し、子孫をつくらせるというものであった。彼ら優秀な「子孫」は、外部の優秀な教育を受けるべく有数の大学の高等教育を受けることになるが、この体験がその「子孫」たちによる同コミュニティの運営にたいする批判を生んだと倉塚はまとめている。

コミュニティに帰順した「子孫」たちは、公然とコミュニティを批判し、複合婚ならびに優生婚への異議と単婚の復活を望んだ。ノイズは姦通罪を恐れカナダに逃走した。1879年にコミュニティは複合婚を廃止し、一夫一妻制に復帰した。二年後の81年一月一日から共産制も廃棄され株式会社に移行した。

シェーカー・コミューンは独身性を貫き、しだいにその勢力を減らしていったが、オナイダ・コミュニティは短期間で「楽園」を築き上げ、そして自壊した。そのもっとも大きな理由は優生繁殖によって生まれた「子孫」たちの倫理的な世俗化であった。つまり本稿でいう資本制社会を支えたプロテスタント的倫理である。私はここにアーレントのいう「労働」を外部に委託し、そしてその共同体の運営を良品主義によって選別された後継に託すと言うその特殊な倫理の湿潤にみる。前期コミュニティを支えたのは楽園的生活を実践しようとして絶対的な家父長制を敷いた父であり、後期コミュニティの崩壊を後押ししたのはその絶対的世界に疑念を差し挟んだ子であった。子たちによって運営されたオナイダは今も健全な株式会社として運営されている。

6 セックス・ドラッグ・ロックンロール アンド ギャベージ

次の舞台はそのおよそ一世紀後である。現在も継続しているヒッピー・コミューン、ホグス・ファミリーがウッドストック・フェスティバルを成功させたのは1969年8月15日から18日にかけてであった。インディアン共同居住区内の牧場で開催された同コンサートでは当初の1万人規模の来場者数をはるかに越え、当時のニューヨークタイムス紙8月27日発行版によれば40万人を越えた来場者を数えた。いわゆるフラワー・ムーブメントの頂点と終焉を迎えた出来事であった。

アメリカの60年代に発生したヒッピー、そしてそのコミューンの歴史的意義はいまだに客観化されていない。しかしこの運動が、20世紀後半までの、ユートピア的共同体の宗教的、文化史的影響を意識的、無意識双方の面から受け継いだ坩堝であったことは疑いようがないように思える。19世紀の文化的共同体をめざしたブルック・ファームを率いた一人マーガレット・フラーの家系はその二代後に発明家バックミンスター・フラーを生んだ。バックミンスター・フラーはヒッピーの新しい家として愛用されることになるダイマキシオン・ドームの技術を提供した。またフーリエ主義者からエンゲルスを経て再び「家族の解放」がここでも追求された。その一端が「フリーラブ」である。彼らの最上部分が目指した人格の向上のためのLSDの使用は「すばらしい新世界」でソーマを発明したハクスレー渡米後の経歴に直接的な影響を受けている。またヒッピーの特異なスタイルと放浪はビートニクを経由して、スイス・アスコナの、若きヘッセが心酔した放浪者グスト・グレーザーを彷彿とさせる。また彼らのテキスタイルには抑圧された先住アメリカ人たちへのシンパシーと後ろめたさが漂っている。そして彼らのもっとも偉大な文化史的貢献は意外にも電気的増幅を用いて強烈なグルーブをともなった楽曲と高揚の空間をつくりだしたことであった。それは本稿でいえばアーレントのいうそれ自体が目的である「行動」をやや矛盾めいてはいるが、社会的生産様式としてシステム化したことであったともいえる。そしてこれらは一流の音楽、映像のプロフェッショナルの「仕事」によって記録化され、今でも利潤を生み出しているのである。

しかしこのヒッピームーブメントもドラッグの乱用や「抑圧された」社会生活を無視する不潔な生活や空間が彼ら自体を弱体化させたといわれている。いくつかの文献をひもとくかぎり、彼らの多くに欠けていたのは社会に代わる規律であるという印象を受ける。にもかかわらず、そしてその動きのピークが1967年から69年と言うたった三年であったにもかかわらず、労働を放棄した彼らが生存し得たのも事実である。これは如何に可能であったのだろうか。一つの理由には先のウッドストックが音楽の祭典とともにドラッグの祭典であり、裏側では巨額の金銭が動いたこともあげられるであろう。

ここに私はもう一つの理由を付け加えたい。それは1960年代までのアメリカ黄金時代の生産様式が生んだ不要な余剰−それは社会人からすればゴミにすぎないのだが−による恩恵である。ヒッピーたちは原野で自らの手で生物的機能を維持させるための開拓的労働をする必要はなかった。彼らは幾分くたびれてはいるが、いまだ充分に潜在力のある都市のインフラを前提に住んでいたからである。「働くヒッピー」は語義矛盾である。その意味で彼らは「都市的狩猟民」の原型ともいえるであろう。セックス・ドラッグ・ロックンロールに付け加えなければいけないのはギャベージ(garbage)である。ポスト千年王国下、セックス・ドラッグ・ロックンロール、そして都市的剰余、そんな状況下でコミューンの「はたらき」はどのように変質したのだろうか。

ヒッピーたちの都市的拠点となったのが1966年ごろのハイト・アシュベリーである。同地はサンフランシスコにおいても特にリベラルな雰囲気を持った住宅街であった。そんな環境の中、ビートニクたちが移り住むにつれ、部分的にヒッピーたちを迎え入れる素地は出来上がっていたといえる(もちろん抵抗する商店主、住人も多かった)。

これらの状況の中で、初期の注目すべき自治的活動として「ヒッピーの反実利主義者の自由奉仕組織」[xviii]であるザ・ディガーズが生まれた。ディガーズはサンフランシスコの劇団のメンバーや禅に影響を受けた詩人によって構成されていた。彼らの名前も象徴的である。その名は17世紀のロンドンの千年王国的宗教コミューンからとられたのであった[xix]

彼らの活動について当時記録された内容は、彼らヒッピーの「はたらき」を検討する上で貴重である。登場する固有名はすべてディガーズのメンバーだ。

「われわれにあるのは、無料の共同バッド、無料の衣服、無料の食べ物、ドラッグによる不当利益を阻止する無料のLSDだ」ロン・デービスが言った。「しかしグローガンは外へ出て行って行動した。朝の四時に卸売市場へ出向き、食い物をただでくれと言うと、そこの人たちは彼になぜだと訊く。彼は飢えている者がいるからそれが必要だ、あんたたちはそうすべきだからそうしろと言うんだ。そんなわけで、食べ物が与えられるってわけだ」。

実を言えば、大量に与えられるので捨てざるを得なくなるのを恐れて、ディガーズは倉庫と冷蔵庫を探し始めた。グローガンが頭を殴られるという奇妙な事件もあったが、通常卸売り市場へ行けば、それなりの量の食べ物をもらえ、ときにはばかばかしいほど量が多い。…

毎日午後四時にパンハンドル地区で食事が提供された。長髪と髭の連中だけでなく、腹をすかした者全員に提供されたのである。食事の場に必要なものは自分用の皿やカップ、スプーン、フォークだけ。毎日、古着を着た少なくとも百人の若い男女が施し物をもらおうと共有地へ集まってきた。…

食べ物は、ハシュベリー(引用者註 ハイト・アシュベリーのこと)のいくつかの地点にディガーズが設けたコミューンの大鍋で煮たきされた。ボランティアの女たちとディガーズの何人かが、共同炊事場で何時間もかけてシチュー作りをした。この仕事は17世紀のディガーズだったら喜んでしたはずだが、あろうことか食べ物を欲しがる者の大半は働くのを拒否したり、生きるためのパンを供給する社会に何らかの面で参加するのを拒絶しているということが、このディガーズの面々には面白くなかった。コミューンのメンバーは今や社会革命家でも、クェーカー教徒でも、エクセントリックな神秘主義者でもなかった。報道機関がつくったラブ・ジェネレーションでも、フラワー・チルドレンでもなかった。そのメンバーはぶしつけな言い方をするなら、無知で無分別な脱落者、十代の家出人、ドラッグ常用者、過密状態のスラム街で身を寄せ合って暮らしている精神病者であった。」「ディガーズ、見えない政府」前掲p.101

働かないことを主義とするヒッピーたちを食わしていたのが、必要に応じて活動を余儀なくされた、ドラッグ常用者や精神病者たちであった。両者の姿は双方とも興味深い。というのもヒッピーたちが主義としてはたらかないのを目指すのであれば、それは本書第二部が検討してきた労働を原罪とみなす意識に通底していることは自明である。そしてまた奉仕活動が、慈善家ではなく、ドラッグ常用者たちや社会的弱者である精神病者たちがやむにやまれずなした行為がそれを超えた活動の枠をもっていることである。67年のハシュベリーのいくつかの界隈はこのような無産者たちの奇跡的なバランスによって保たれていたのではないか。そしてそれを保証したのが、ギャベージ=都市に集まる余剰であった。

1967年3月21日、チャールズ・マンソンという、白人成人男性からすると小柄な体格の男が売春幇助疑惑(後に却下)と小切手偽造に関する7年の刑期を終えて出所した。その間に世界は激動した。彼はその流れから完全に取り残されていたが、刑務所の中で、魔術、催眠術、サイエントロジー[xx]、自我ゲーム[xxi]、そしてギターを一生懸命練習していた。チャールズが向かったのは、何か奇跡的なことが起こっているらしい、サンフランシスコ・ハシュベリーであった。彼は本物の”ヒッピー”の持つ魅力で、迷える子羊としてのヒッピー予備軍を誘惑し、コミューンめいた、もしくはハーレムめいた”ファミリー”を急速に形成させるにいたった。

周知のごとく、マンソンのもとに集まってきたヒッピーたち、”ザ・ファミリー”が1969年8月に起こしたテート–ラヴィアンカ惨殺事件のような、アメリカの負の部分をここでことさら紹介することがこの章の役目ではない。むしろそのような猟奇的な顛末をかっこにくくる過程でみえてくるマンソン、そして彼の”ファミリー”における特異な生産様式とその結末こそが、この章での検討に貴重な示唆を与えてくれると思うのである。マンソンたち”ファミリー”の行状にもっとも早い時期にその詳細な記録をまとめたエド・サンダースは、その今でも第一級の資料である”The Family”(1971)の冒頭で執筆に向けての心情を吐露している。「ところが、ロサンジェルスにはじめて飛んだとたん、私はそのあと一年半継続することになる、昼夜の別もない狂気のような取材活動に首までどっぷりつかってしまったのだ。」[xxii]

エド・サンダースはビートニクであり、著名な詩人であり、かつ60年代当時人気のあったアンダーグラウンドのロックバンドThe Fugsのリーダーとしても活躍していた。すでに当時そのような一定のカリスマ的評価を築いていた彼がこのファミリーたちの行為とその結果に憑かれてしまったのは、彼が、それらに対して、エド自身にも胚胎していたアメリカのコミューンのネガティブな根源性を認めたからに他ならないであろう。

マンソンに教義めいたものがあるとすれば、彼は自らをキリストと悪魔とを合体させた異端の黙示録主義者だったということであろう。彼はファミリーによく黙示録からの引用を語ったというが、その主張は彼らの行いが集団逮捕によって収束する1969年10月に近づくになるに従い激しくなっていった。たとえば黒人蜂起説である。虐げられてきた黒人たちが、数百万の白人を殺害し、現政府の統治を転覆する。さらに四、五〇年後、黒人は自分たちが世界を統治するのに不適当なことに気づき、マンソンに政府を譲り渡すことになるというものである。まず殲滅されるべきは金持ちのキリスト教徒のアメリカ人であった。キリストであると同時にデヴィルであるマンソンは再臨を成し遂げるだろう。彼は金持ちのアメリカ白人を白ブタ(Pig)とよび、それはファミリーの行った殺人現場につねに書き付けられる合い言葉になった。そしてマンソンはビートルズのホワイトアルバムに収録されたハードロック、Helter Skelter[xxiii]を最終戦争の曲として受け止めた。そして彼はデス・バレーで発見し命名した”デヴィルズ・ホール”の洞穴の中で、市街地の黒人と白人が戦い、黒人たちが勝利をかちとる日まで暮らすつもりであった[xxiv]。ホピ族インディアンの伝説に「第三世界からの出現」と呼ばれる神話があり、それは広大な地下世界にまつわる記述であった。1968年のある時より、マンソンはこの穴の探索に取り憑かれた。その地下世界であれば、ファミリーが暮らせるのではないかと。その結果彼が推測したのは実在するデヴィルズ・ホールであった。そこは底なしの巨大井戸であったが、こここそが地下世界の封印された入口であり、排水の可能性さえ検討したという[xxv]。現に、彼らが1969年10月、集団逮捕された場所はデス・バレーの”ホール”付近であった。彼らは、今後の戦いに備えて特別に装甲したデューンバギー車に載って、時たま都会に赴き略奪を繰り返す計画を立てていたのだった。8名の子供の他に27名の男女で編成された盗賊団の跳梁はこの日停止した。

以上のような狂信的妄想に幾ばくかの検討に値する内容があるとすれば、それはアメリカ白人たちに深く刻まれたこれまでとは全く別の原罪の意識であった。先に紹介したアメリカ人の心性を扱ったベラーは以下のように述べている。

「インディアンたちは新移住者によって、自らの文化を理解・尊重さるべき人間本来の権利を奪われたばかりではない。土地や生計手段、さらにはしばしば生命さえも、無情に剥奪されたのである。これこそアメリカの社会の根底に横たわる原初的罪悪であった。

移住初期の数十年間に、この原初的罪悪はもう一つの大罪と混じり合うこととなった。ヨーロッパ的夢の外に住むもう一つ別の人びと、つまりアフリカ人たちに対する仕打ちである。アフリカ人は、彼らなりの壮大な宇宙論的象徴を抱いていたのに、最も悲劇的な情況の下で、強引にヨーロッパ的夢の中の登場人物にさせられてしまったのである。インディアンに対する搾取と略奪に加えて、アフリカの黒人を故郷の力強制移送し,アメリカで奴隷にすることが行われた。このようにアメリカのごくはじめにおいて,二重の罪悪が犯されたのである。そしてその数えきれないほどの影響が、未だにこの地をおおっている。ところが実に永い間、そして実にまた多くの人が、そうした罪悪の行われたこと自体に気づかずにきている。今日ですらそうである。白人アメリカの夢の何かが、そうさせているのだ。」前掲p.84

その白人たちの夢とは、アメリカの宗教的白人移住者たちに蔓延していた選民思想であったとベラーは述べている。彼はアメリカの影を描いた劇作家ジェームス・ボールドウィン(1924−87)の言葉を引き合いに出しつつ、説明している。

「別に社会的な理由もあり,この方が幾分、より重要なのである。というのは、それがわれわれの社会的なパニックや、身分を失うのではないかという恐怖感などと関連しているからである。時にはこれは一種の社会的なパラノイアにまで発展する。この特殊な梯子の上で身分を失うということはとてもできない。というのは、アメリカ人の生活の中で一般的に行きわたっている考え方の中には、梯子を一段一段上ってゆけば、何かとてつもなく望ましい状態になるということが含まれているからである。もし人生をこういう風に考えるなら、梯子の一段をすべり落ちるということは到底できないことは明らかであろう。もしそうなったら一段すべり落ちるどころか、混沌無秩序へ落ち込むことになり、もはや自分自身が誰であるかも分からなくなってしまうからである。まさにこの理由,この恐怖こそが、この国において黒人がなぜあのような地位に置かれているか,その本当の理由を示唆しているように私には思える。ある意味において黒人はどこが底辺であるかを示してくれている。なぜなら彼らはその底辺にいるからである。…この国で増加してきた黒人についての神話をしらべるならば、この神話の背後に、われわれが想像することを拒んでいるところのある状況に対する一種の無意識の恐怖を見いだすことであろう。ある意味において、もし黒人が底辺にいなければ、われわれは従来黒人にかぶせてきたすべての悪徳や謎や不可解さをば、みな自分自身や自分の人格の中で扱ってゆかなければならなくなるであろう。」(Nobody knows my name, Dell, 1963, pp.111-112)ロバートNベラー『破られた契約』第一章アメリカの起源神話前掲152-3

これはマンソンが、父無し子で、娼婦であった母にも捨てられ、12歳以来若い頃の多くを少年院で過ごした最底辺の白人だったという姿にそのまま直結する回路である。彼は当時台頭しつつあったブラック・パワーを本質的に恐怖した。彼が見つけた安住のアンダーグラウンドとしてのホールは、まさに白人の階梯を失った彼によって構築された奈落の現実化でもあった。彼が啓示を受けたHelter Skelterはこんな感じの出だしである。単なる巨大なすべり台の歌ではあったのだが…。

When I get to the bottom I go back to the top of the slide

Where I stop and I turn and I go for a ride

Till I get to the bottom and I see you again.

底まで行き着いたら すべり台のてっぺんに戻って

足を止め 向きを変えて またすべる

底までもどって またおまえに会うんだ…

それは中産階級より上の出身が実は多かったと言われるヒッピーたちに比べ、”ファミリー”の構成員の多くが社会階層の低い人々で構成されていたことにも共通しているだろう。彼は自らの歪んだキリスト教的心性を悪魔と合体させる方法で、黒人にすりより自己正当化を果たし、最終的には騙すのであった。エド・サンダースがマンソンの中に見たのはこのような抑圧されたアメリカ白人全体の原罪的無意識であったと推測される。マンソンはアメリカを築き上げた心性の一つでもあったポスト千年王国の幻想を終わらせ、もっと卑屈な別の幻想で書き換えようとしたのだった。

さてファミリーたちの生き方は”ギャベージ生産様式”そのものだった。ファミリーの女性たちに与えられた仕事はまず夜中の残飯あさりであった。都市のゴミ箱はまだ食べられる食料の宝庫だったのである。男たちに与えられた仕事はマンソンの犯罪歴の側面を充分に活用したクレジットカード偽造、そして自動車泥棒だった。偽造クレジットで必要なものを買えるし、もしくは盗んだ自動車に乗って、スーパーマーケットのウラへ残飯をあさりに行く。確かに明瞭な犯罪であり、通念上のバランスを著しく欠いているが、生存可能な方法である。しかしファミリーは外部に何の施しをも与えなかった。滅ぶ運命であるところの都市的インフラからの飽くなき収奪が彼らの生産様式であった。マンソンの吹き込んだ「ゴミ捨て場(GARBAGE DUMP)」という曲からその一節を紹介しておく。

Oh garbage dump oh garbage dump

Why are you called a garbage dump

Oh garbage dump oh garbage dump

Why are you called a garbage dump

You could feed the world with my garbage dump

You could feed the world with my garbage dump

You could feed the world with my garbage dump

That sums it up in one big lump

When you’re livin’ on the road

And you think sometimes you’re starvin’

Get on off that trip my friend

Just get in them cans and start carvin’

おお、ゴミ捨て箱ゴミ捨て箱

なんでゴミなんていうのかい

おまえはゴミ捨て場から世界を養うことができる

一つに積み上げられたその山から

路上で生活していて

時たま腹が減ったとき

そのふたを持ち上げ

中のものを詰め込んで、切り分けるんだ

ファミリーたちの棲んだ「ハコ」も同様である。彼らの強固な信念を持ってすればどのようなハコ、場所でも家となった。ファミリーが大きくなった後のまず第一のハコは窓まで真っ黒にペイントされたスクール・バスだった。彼らは原野を点々とし、鍵のかかっていない別荘を見つけたり、半ば脅迫同然、あるいはファミリーによる身体的サービスと引き換えに他人の家を占拠した。そして終局へといたる一年前の1968年8月以降、デス・バレーの”ホール”へといたる道のりまで彼らの定住場所となったのがスパーン農場という、元西部劇撮影用のセットが組まれたウラ寂れた観光地であった。これはファミリーのハコがどのようなものであったのかを語る象徴である。そのハコはすぐにでも打ち捨てることのできる仮設のセットであった。用がなくなったらそこを過ぎ去れば良い。彼らは場所に尊敬心のみじんもないきわめて利己的な遊牧民であった。唯一”ホール”をのぞいて。

ファミリーたちによる富裕な白人層を標的にした惨殺事件は1969年7月からはじまる。これは先にも指摘したような68年以降肥大化していった黒人対白人の闘争時代の預言と併行していた。しかしこの章ですすめてきた人間の「はたらき」から、ファミリーを批判的に検討することからはもう一つの重要な伏線があらわれてくる。それはマンソンのシンガーとしてのデビューの失敗であった。

68年の5月ごろ、彼とそのファミリーはひとときビーチボーイズのデニス・ウィルソンと親交を持った。出会い方は不明だが、ウィルソンが演奏旅行から帰ってくると、黒いバスが家の外に止められ、居間には25人の主には女性のファミリーに占拠されていたという[xxvi]。マンソンたちは彼の邸宅に滞在し、レコーディングを行っている。この録音群は今ではitunesでも購入できる。ウィルソンは彼の才能(特に詩)を認め、ビーチボーイズのシングルのB面に採用している。ウィルソンはレコード・プロデューサーのテリー・メルチャーにマンソンを紹介した。しかし最終的にメルチャーは彼と契約することはなかった。ここで彼の夢は挫折することとなった。1969年7月25日、彼の命によってファミリーたちが赴いた先はメルチャーの家であった。しかし彼はとっくに引っ越しており、そこに住んでいたのが、夫のロマン・ポランスキー不在中のシャロン・テートと彼女の仲間たちであった。

さてその彼の夢とは何だったのか、それはヘルター・スケルターの歌詞を用いれば「底まで行き着いたら すべり台のてっぺんに」戻ることである。つまり歌という自己目的的な「はたらき」によって、世界の頂上に一気に上り詰めることであったと思われる。彼は彼の歌によって世界が覚醒すると信じていたに違いない。そして可能であれば、そこから利益を売ること。つまりはロックンロールスターになることであった。そうしたら「足を止め 向きを変えて またすべる 底までもどって またおまえに会うんだ」。しかしそれは果たせなかった。マンソンにとって、歌は大変重要なものであったらしく、2012年現在獄中で生存する彼は、いまだ彼の歌から一切の利益を得ることを拒否している。私が購入した彼の曲の利益はどこに行ったのか不明である。

マンソンによる反社会的行為は中断したが、彼らの行為がアメリカ白人に与えた心的インパクトは相当なものであったろうと考えられる。それはエドも取り憑かれたように、占領民としての彼らの原罪的側面に大きくかかわっていたからだ。彼らのつくった”プロット”が、その後、特にハリウッド映画、音楽産業に与えた影響は数知れない。彼らの事件を知って以来、私ですら70年代以降のアメリカ映画の見方を少し変更せざるを得なくなった。砂漠を舞台にした恐怖劇、深遠な思想を語るシリアルキラー、そして占領民としては同じ抑圧された原罪を共有しているであろうオーストラリアでつくられた『マッドマックス』(1979)。彼らが人々に与えた恐怖は、商業映像、音楽を通じていまでも再生されている。

とりわけ後味が悪いのは、彼らの行為を漂白し、その家父長的カリスマとそれに従う女性たちのファミリーをつくりあげたと考えられるプロットである。1976年、ABCテレビジョンは「チャーリーのエンジェルたち」”Charlie’s Angels”というアクションドラマを放映しだした。

この冗談めいた命名のドラマは匿名の男性エージェントの指令に従い悪を殲滅させていく華麗な3人の女性たちの活躍を描いたものである。彼女たちは男性エージェントには明らかな階層的断絶がある。彼女たちは彼の本当の正体を知らないが、固い信頼で結びつき決して命令に背くことはない。つきるところこれは、”チャーリー” マンソン・ファミリーにおける人を使役、使役されることにアイデンティティーを見いだしていった彼らのエロティックな部分のみを男性性側の都合に合わせて書き直したプロットである。そしてこのプロットがおぞましいのは、彼らと敵とが完全に敵対している点である。その勧善懲悪さは、簡単に善悪の世界観をひっくり返すことができる。つまりはデューン・バギーを用いて収奪を繰り返そうとした信頼で築かれたファミリーと全くおなじ心性がそこに、きわめて健全な社会的衣装をまとって再現されているのであった。

資本制社会は、マンソン・ファミリーを彼らの生んだギャベージとして把握し、それを安全に再生産することに成功したのであった。

シェーカーという学び舎

マンソンの極限的な事例を除外したとしても、シェーカー以外の多くのコミューンが最終的にもち得てしまったのが、社会的規律に代わる絶対的規律としての父性であった。規律のないヒッピーたちに悪魔的な父という規律を与えたのがマンソンであった。そして実はこの父性は、以前に紹介した上野千鶴子の指摘した「家父長制資本主義」にも親和性が強かった。一般社会におけるマンソン事件の消費のされ方から、私たちはそれに気づくことができるのである。父性もしくは共同体の王の交代にかかわる王殺しは古くは19世紀のフレーザーによる金枝編が主要モチーフとしたごとく、生産を義務とする古代社会以来のテーマである。結局私たちはそこをぬけだすことができないのだろうか。いや、おそらくシェーカーのみがそれを静かに越えることができたのだと私は思う。

シェーカー研究者である穂積は、絶滅寸前のシェーカー教徒たちが、きたるべき教徒消滅後にとった解決策を紹介している。

それはシェーカーの残した建築施設そのものを学校機構に譲り渡すことであった。それが彼らの聖地に今なお現存し運営を続けているDarrow Shoolと言うカレッジである。そのスクールの沿革にはこう記されている。

「ニュー・レバノンのチャーチ・ファミリー、シェーカー・シスター・エンマ・ニールはシェーカーの人々の消えていくのをみ、シェーカー・ビレッジの将来について、思案をめぐらした。かの女は、それについて、かの女のよき友、いま一人のシェーカー・ティーチャーのシスター・アメリア・エルバーと、はなしあった。そして、一つの少年たちのための学校こそ、シェーカーの施設を有効に利用し、シェーカーのなんらかの伝統を保存するに最適であるとの結論に達した。1929年、かの女たちはヘイト氏と会談し、学校創立のことを引き受けることを説得した。かれは、シスター・エンマの理念を実行するに、まさに好適の人であった。…かれは、その特性の情熱をもって、ただちに活動をはじめ、シェーカーに関心をいだくひとびとのグループを結成した。

…1929年・1930年の困難な不況時代に、基金がつのられた。そして四〇棟の建物と300エーカーの土地がシェーカーのひとびとより購入された。1932年9月、…レバノン・スクール(the Lebanon School)が開校された。」[xxvii]

シェーカーがその施設を学校に譲り渡したことはきわめて本質的な譲渡であった。

というのも、良識のある規律にささえられつつ、常に成員は更新されつづけるからである。シェーカーはいま学び舎として成立した。多くのシェーカー・ビレッジ跡は、訪れてみればわかるが、単なる観光地とは思えない。常に何らかのワークショップが開かれ、シェーカーとは何であったのかをそれぞれが問う学び舎として機能し続けているように思える。なぜ彼らは、これほどまでに厳格な対称性を保った建築をつくり、すべての家具は大地から決別する意志持ち続けているのか。訪問者は、シェーカーのひとびとが不在の”ビレッジ”において、彼らの残した建築物、家具をみながら自問せずにはおれないだろう。彼らの建築物はつきるところ、彼らの疎外物であり、そしてそれはまた同時に彼らによって疎外された罪深き人間たちの形見なのであった。

彼らはその疎外物を舞台に、踊り旋回し、どこからともなくやってくる歌や言葉が自らの身体を通して発露していく回路をつくりだした。それはきわめて純粋な「はたらき」だったのではないかと思えるのである。

先に紹介した女性作家ジャイルスは資料にもとづき構成したシェーカーを題材にした小説”The Believers”の中で、初期(19世紀初頭)の彼らから歌が生まれそれが記録される様子をえがいている。

「マザー・アンの時代には、ダンスのための組仲間というものはなかった、ということである。めいめいは自分の衝動のままに旋回したり転回したりしたものだ、ということである。それは自由で生き生きとしたものだった、ということである。だが、いまは、マザー・ルーシーが教会のかしらであった。かの女は適当なステップやフォーメーションを非常におもんじた。…しかし、ブラザー・ベンジャミンには、その必要はなかった。かれは、いかなるステップも、いかなるフォーメーションも、しっていた。…

かれの指導の下で、わたくしたちがうごきまわっていたとき、かれは、わたくしたちを席にもどして「テスティモニー」の一部を、わたくしたちに、よみきかせた。そのあとかれは、にわかに、自然に胸から湧くうたを、うたいはじめた。そして、それをのぞむものを、急調子の、生き生きした、からだを振動させるダンスにみちびきこんだ。…震動は、まず、ゆるやかなてくびをもってする手の震動ではじまる。ついで、うでの前部に、うでの前部からかたに、すすむ。そして最後に、その全力でもって、全身をとらえてしまう。

震動運動の最中に、シスター・スザンの舌がうたのギフト(恩寵)のみまいをうけた。あらゆるギフツを、すぐに感得するのがシェーカーの常道である。だから、わたくしたちはダンスを中止して、うたはつづけながら、かの女をとりまいた。かの女のかおはよろこびでかがやいていた。そしてビジョンがかの女に詩をさずけた。ブラザー・ベンジャミンは、すぐに、その歌がうつくしいものとしり、ノートブックをとり出して、かきとめた。それは、わたしたちの愛誦するものの一つとなった。それで、わたくしはそれをよくおぼえている。

O calvini ciste I no vole,

Calvini criste liste um,

I no vole vinin ne vite

I no vole visite vum

」(pp.128-130)

どこからともなくやってきた言葉。高揚する空間によって生まれた歌のはたらき。それを書き留める「仕事」はすでにシェーカーにおいて完成されていたのだと、私たちは知るのである。

謝辞

オネイダ・コミュニティをはじめとした日本であまり流通していないコミューンについての情報は中谷礼仁研究室で2013年まで存続した家の本性ゼミでの、ゼミ員、特に伊藤杏奈、黒田瑞仁らの作業に負うことがおおい。記して感謝する。

[i] コミューンとは本来、フランス、イタリア、スイス、ベルギーなどの「自治体」の最小行政区分をさしていた。歴史的には、1879年のフランス革命時、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、その後革命的自治組織を組織した。これをコミューン(commune)といった。また英語では、共通の宗教を奉ずる仲間たちの群に言及するとき、コミュニオン(commuion)またはコミューナル・グループ(communal group)が用いられる。これは「宗教団体」とも訳される。参照:村田充八『コミューンと宗教 一燈園・生駒・講』行路社1999

[ii] 『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年

[iii] とりわけ19世紀末から20世紀初頭にかけての、オーエン、フーリエ主義者らの全西欧にわたる活動はもとより、ドイツのワンダーフォーゲル運動や、ウェーバーら知識人を主とした解放区としての中央ヨーロッパ、スイス・アスコナ周域、その結果としての現在まで続くナチュリズムは重要である。これら活動と20世紀建築のアバンギャルド活動との隠れたつながりを再検討していくことは、今後重要な史実をもたらしてくれることと推察する。

[iv] 『破られた契約』第一章アメリカの起源神話 p.35, 未來社

[v] 前掲書参照「幸いなことに、いままでにまとめてきた様々な観念を、見事に表現したアメリカ史初期の史料がある。それはマサチュセッツ湾植民地の初代の指導者であったジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)が、1630年,新世界に上陸する前に,航行中の船で行った説教である。(ペリー・ミラーによればウィンスロップこそわれわれ[アメリカ人]の意識を最初に表した人であったという)。「この船を難破から守り、子孫を養う唯一の手段は、正義を行い、人を許し、へり下った心で神と共に歩もうという預言者ミカのすすめに従うことである。この目的を果たすために、我らは仕事に協力して一体となり、互いに兄弟愛で接し合い、他人が必要とするものを与えるために自分の贅沢をいましめ、柔和で優しく、忍耐と寛い心で親しく取引をし、互いを楽しみ、他人のことは我がこととし、共に喜び、共に働き苦しみ、いつも我らの仕事の中の一つの任務、一つの体としての共同体を忘れず,平和の絆のうちに心の一致を持たなければならない。そうすれば主は我らの神となり給い、今よりさらに深く神の叡智・力・善・真理をさとらせるために我らを御自分の民とされ、我らの中に喜んで住まわれ、すべてにおいて我らを祝福される。…人びとは我らの植民事業の成功について語るであろう。主はそれをもって新しい英国(ニュー・イングランド)となし給わんことを。なぜなら我らは丘の上の町となることを考えなければならず、すべての人の目は我らの上に注がれているからである。」…彼は大西洋横断を紅海とヨルダン河の横断に見立て,マサチュセッツ湾が約束の地であるとの望みを提示した。植民地に向かう殆どの人びとは、内的改革・刷新によって深く改心した男女であった。」前掲p.45-6

[vi] 用語の用い方等、部分的に荒井直「「労働」観 キリスト教文化と古代ギリシア」山梨英和短期大学紀要 30, 17-35, 1996-12-10 のまとめにしたがう。

[vii] ここで「生存」とは何かについて、別に問うてみたい。現日本国憲法にいう「生存」権には、アーレントのいう行為・仕事・労働すべてが含まれている。つまり生きること(機能)+存すること(実存)である。しかしながら現実的にそれは生活保護法などに代表されるように、最低限の社会的生命維持の権利として存在している。ゆえに、生活保護を獲得するには、様々な面でその立場に見合った行動の制約をうける。それを受け入れたくなければ、彼らは働く義務を被る。

しかしながら彼らの多くは、不安定な賃労働者に回収される。もちろんそこに、仕事を通じた人生の充実があるかどうかは保証されない。つまり「生存」における、実存的側面は脱落している。無一文者が生存における実存的側面を獲得するには、現時点の日本ではホームレスになり、行政権力の隙間をぬって、自ら知恵を絞らなければ生きていけない。しかしそこでは、一方の生きるという機能的側面は保証されることはない。もちろん理想的コミュニティの生産においてこのような状態はあってはならないことだった。すべてのユートピア構想者が心を砕いたのは、そのコミュンにおいて、如何に生産を高貴なものとするかであった。つまり、労働は避けるべきである。しかし成員を生きながらえさせるために労働は不可欠である。もしくは労働を「仕事」や「行為」にまで高められるような意味付け、システムをつくること。これがユートピア成立の労働的側面の必要条件である。

[viii] (引用者註 1766年ごろ)ソサイチーのつとめは,(引用者註 創始者のジェームス・)ワードレイ夫妻がとりおこなっていた間は,聖霊と神の力のさまざまなおこないで、それは彼らのそのときどきの感応にしたがって、おこなわれたものであった。かれらは、よくいっしょにあつまり、しばらくすわってしずかに瞑想したあと、大きな震動にとりつかれ、そして震動しながら、罪に対する神の怒りを口にした。またときによると、神の力の下に、大きな震動を感じた。またときとしては、うたったり、さけんだりして、大風に吹きまくられる雲のように迅速に、床の上を動き回った。これらの奇異な行動から、このひとたちはシェーカーズの名を得た。また、ひとによっては、かれらをシェーキング・クエーカーズともよんだ。」穂積『ユートピア 西と東』法律文化社1980,p.38

[ix] 「シェーカーへの旅 祈りが生んだ生活とデザイン」住まいの図書館出版局1993年

[x] 参考 穂積『ユートピア 西と東』法律文化社1980。同氏のユートピア研究についてをまとめたもの。

[xi]穂積が主な典拠としたのは以下の文献である。”Testimony of Christ’s Second Appearing, exemplified by the principles and practice of the true Church of Christ: history of the progressive work of God, extending from the creation of man to the “Harvest,”–comprising the four great dispensations now consummating in the Millenial Church : Antichrist’s Kingdom, or, churches contrasted with the Church of Christ’s First and Second Appearing, the Kingdom of the God of Heaven” published by the United Society called Shakers, No date, Van Benthysen, printer, 1864, Edition: 4th ed.少なくとも19世紀初頭には書かれていたシェーカー教徒の”バイブル”とも呼べるもの。

[xii] 参照 穂積前掲p.39

[xiii] 穂積前掲p.45

[xiv]以下の内容紹介も穂積に従う。シェーカーの日常生活、共同体運営の他者からの証言については1957年に出版されたシェーカー教徒を主題にしたJanice Holt Gilesによる”The Believers”を主参考としている。穂積によればこの小説はフィクションではあるが、小説の序文が示す通り、現存する一次資料から構成されたもので、部分部分における描写は正確であるという。そのほかオナイダ・コミュニティ(後述)の創始者John Humphrey Noyes, “History of American Socialism”,1870,のMacdonaldによる記録、Charles Nordhoff, “The Communistic Societies of the United States”, 1875、Everett Webber,”An Escape to Utopia”, New York, 1959を用いている。本稿における引用の原典は穂積の成果を参考にされたい。

[xv] 前掲p.124。なお、このシェーカーによる発明についての出典はEverett Webber1959, p.59

[xvi] オナイダ・コミュニティは宗教的にはすでにいったん解散したコミューンである。しかしその派生的活動は継続中である。またコミュニティ時代の錯綜した史実については、その第一次資料が意図的焼失によって消滅することによって完全な復原は困難である。と同時に、それらについての誠意ある復原作業も進行中であることを申し添えておきたい。

シラキュース大学オネイダ・コミュニティ・コレクション

http://library.syr.edu/find/scrc/collections/diglib/oneida/index.php,

Tontine255 Blog http://tontine255.wordpress.com/about/

[xvii] 前掲p.72

[xviii] バートン・H・ウルフ『ザ ヒッピー フラワーチルドレンの反抗と挫折』飯田隆昭訳 国書刊行会, p.93 同書はヒッピームーブメントがまだ隆盛している1968年における聞き取りを中心とした貴重な記録である。

[xix]そのオリジナル・ディガーズの目標は「この世を天地創造以前の状態に戻し…そこから得た利益を貧しいものに配る。飢えた者には食べ物を与え、裸の者には衣服を着させ…人の財産に干渉せず、共有地の未耕作地を実り豊か」(前掲p.95)にすることであった。ディガーズ(掘る者たち)は荒野を開墾していく彼ら自身をさしていた。共有地の拡大を危険視する既存勢力から敵視され、焼き殺され、殴打され、17世紀の中頃に消滅したという。この活動が後にシェーカー・コミュニティの源流であったクエーカー教の発生の類縁的萌芽として認められていることも、きわめて象徴的である。

[xx] 「個人の精神性と能力と倫理観を高めることによって、より良い文明を実現しよう」と主張する宗教団体である。サイエントロジストには、オーディティングと呼ばれるカウンセリング、及び、サイエントロジストの理論と技術について学ぶことによって高い能力と精神的な自由を獲得すること、ひいてはサイエントロジーの普及によって文明全体の精神性を高めることが期待されると主張している。wikipediaより

[xxi] LSD教のティモシー・リアリーが唱えた多数派社会の活動や労働や組織を侮蔑、軽視する言葉 参考エド・サンダース『ファミリー』小鷹信光訳草思社1974刊、p.16

[xxii] 「そこで私は、七〇年の一月に、マンソン・ファミリーに関する資料の収集をはじめることにした。全くの個人的好奇心に他ならなかった。そのあと私は、ファミリーについての本を書こうとした。三ヶ月か四ヶ月あれば充分だろう、その仕事が終わったら、また昔どおりの詩と平和の静かな生活に戻ればいいと考えたのだ。ところが、ロサンジェルスにはじめて飛んだとたん、私はそのあと一年半継続することになる、昼夜の別もない狂気のような取材活動に首までどっぷりつかってしまったのだ。…毎日の資料レポートに加えて、私はいくつかの選択的な項目についての資料ファイルをつくった。…さらに重要なインタビューの録音は文章に直し、それぞれのファイルに挿入した。…調査を開始してから数ヶ月後には、私は文字通り一万ページに及ぶ資料の山を渉猟することになった。

毎日の資料レポートと選択項目のファイルから、私は1967年から1969年までの月刊資料ファイルを作成した。この月刊ファイルには、ファミリーに関する各週ごとの歴史もふくまれていた。この編年史的な資料ファイルをもとにして、私は本書をまとめた。」p.3その手法は事件の興奮が醒めていなかったであろう当時にあってきわめて冷静であり、歴史を紡ぐ筆者の倫理性をよく保っている。私はエドのこの冷血な態度にむしろ彼が感じたこのファミリーのアメリカ人たちの心性に強く訴えたはずの歴史的重要性を間接的に知る。

[xxiii] もとは遊園地の巨大螺旋滑り台のこと。マンソンはその本来の意味を知らなかったという。

[xxiv] 前掲に同じp.124

[xxv] 前掲に同じp.104)

[xxvi] 前掲に同じp.47

[xxvii] “The Story of Darrow School”

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、早稲田大学建築史研究室所属、教授、日本荒れ地学会、日本生活学会、日本建築学会などなど。その正体はResercher of temporal architectural expression.
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