「大地をふり払うこと」  本が出るまで全文公開『家の本性』(仮)第二部第二章


本編を含む論集『未来のコミューン』がインスクリプト社より発行されます(2019年1月予定)そのため冒頭部分を除き公開を制限することにしました,(2018.11.18)。

家の本性 第二部第二章

大地をふり払うこと

中谷礼仁

コミューンの家政学

家族(ファミリー)のみならず、いかなる共同体にとって、巷のクラブやサークルにいたるまで、その集まりの存続のためには、成員自体の維持・再生産を目指さざるをえない。その要件は二つある。まずは成員を生き長らえさせることであり、そのために生命維持の手段を獲得することである。さらには、そのシステムの継承者をつくりだすことである。そのためには理念を共有する人々を新しい会員として迎えるか、もしくはその共同体内部での男女による自然的機能としての性的活動とその所産としての子孫の誕生、訓育が必要となる。

さて、この二つの条件は、特殊な理想をめざした共同体、すなわちコミューン[i]ですら逃れることはできない。いや、むしろコミューン運営にとっては根底的な難問となった。

なぜ会員の維持・再生産という普通のおこないがコミューン、特にキリスト教的影響圏の中にある理想的共同体にあって難問となるのだろうか。

彼らにとっての目的は、端的には彼らの生活が楽園にかぎりなく近づくことである。しかし成員の維持・再生産には「はたらくこと」がつきまとう。その「はたらくこと」こそ、楽園追放後の原罪的刻印であった。はたらくこととは、すなわち「地から苦しんで食物を取ること」であり、そして「産みの苦しみと夫ヘの忠誠」(創世記第3章16節、17節[ii])だった。つまり彼らは彼らの楽園を維持する上で、はたらきながらその営みから如何にして離脱するかという人間生活の根本的問題に触れることになったわけである。さらにコミューン内における性活動をとらえるためには、それをむやみに「解放されたもの」としてではなく、このような「はたらくこと」、そしてそこからの離脱という命題とのつながりから取り扱われることがぜひとも必要である。彼らの究極的な到達目標は、同じく創世記を引き合いに出した以下のカントの言葉にいきつくだろう。

人間は、各人がどんな地位にあろうとも、すべて理性的存在者(引用者註:神のこと)との平等という関係に入った(『創世記』三・二二)。すなわち人間は、自らが目的であり、他のいかなる存在者からも目的として尊重せられ、決して誰によっても他の目的のための手段としてのみ使用されないという要求に関しては平等となった。人間が自分よりも上位の存在者とも無制限に平等であることの根拠は、まさに理性のこの点にあり、単にさまざまな好みを満足させるための道具と見なされるような理性にあるのではない。(「人類の歴史の憶測的起源」VIII-114)

いかなる他人をも手段のみとして扱わないこと。この理念は、共同体の維持・再生産の具体的な方法とは調停がきわめて困難な理念である。

アメリカ=楽園

本章では、アメリカにおける3つの象徴的なコミューンを検討することで、先の章で検討することとされた近代家族の宿題のひとつ、生産ーはたらくことからの解放のプロセスを問うてみたい。そして彼らの活動を支えた集住ならびに生産形態の差異を検討することが目的である。

もちろんコミューンと家族(ファミリー)とを同一視することはできない。しかしコミューンがときに「ファミリー」を名称として用い、そしてそれらコミューンが、既存の単婚制(「私有制の単元とみなされる歴史的一形態」)の批判によって成立してきたことも念頭に入れるべきだろう。彼らの多くにおける財産の共有や単婚制の廃止はまさにその批判の実践なのである。それゆえコミューンこそ近代家族の批判的一形態と考えうることも可能であろう。

また本書があつかう地域と時代においては多数のコミューンが存在する。19世紀から20世紀とは、近代家族とともに、その批判形態としての”コミューンの時代”ともいえるぐらいである[iii]。そのなかで特にアメリカを選んだのは、その大陸の発見当時の特殊性にかかわってくる。

 この島や、私が発見して情報を得た他の島々の住民は、男女とも生まれながらの状態で裸体で歩き回っている。ただ女たちの中には,木の葉か木綿であんだ網で局部を覆っているものもいる。…彼らは非常に正直で、そのすべての所持品を惜しみなく与えるので、本当にそれを目撃した人でなければ信じられないほどである。もしその所持品を求められたなら,決してそれを断らないばかりでなく、進んで分かち合い、まるで彼らの心を分かち合えるような深い情愛を示すのである。…そうかといって彼らは特に何かの信条を持っているわけでもなく、また偶像を礼拝しているわけでもない。ただ,彼らのすべてが、天には力と善が存在しているということを信じているだけだ。」Howard Mumford Jones, O Strange New World, Viking Compass, 1967, pp.15-16

このコロンブスの描写は、初期アメリカのインディアンについて記したものの中にも共通して見られるものであって、表面化されてはいないがはっきりと楽園のイメージを暗示していると、アメリカ人の心性を扱ったロバート・N・ベラーは述べている[iv]。この指摘は思いのほか重要である。つまり発見当初のアメリカ大陸は、楽園そのものの再発見として、当時のヨーロッパ人たちがうけとめたことを示唆しているからである。楽園は本当に存在していたのだ!と。これは当時、ヨーロッパにおいて迫害されていた新興宗教団体が、競ってアメリカ大陸をめざすことになった動機の一端を物語っている。それはすなわち本当の楽園への帰還なのであった。アメリカ大陸を切り開き、入植すると言うことは、実際に神に祝福された共同体をつくりあげることを意味していたのであった[v]

「行動・仕事・労働」と「聖化された労働(資本主義)」

これからアメリカのいくつかの歴史的コミューンの経営方法を検討していくにあたって、さしあたり有用なのは、いま「私たちがふつうに行っていること」の全体を問うたハンナ・アーレント『人間の条件』である。とりわけ同書で提示された人間の活動類型である。またその対極としての、ウェーバーが指摘した、資本主義的行為の宗教的合理化を可能にしたプロテスタントの倫理観である。いずれも著名なものであるが、本書の目的にしたがって、その要点をまとめてみたい。

まずアーレントは人間の生産活動を、労働(labour)、仕事(work)、行動(action)という大きく三つの段階に分けている。この三つの活動力が基本的だというのは、人間が地上の生命を得た際の根本的な条件に、それぞれが対応しているからであると彼女は述べる。

まず労働labourとは、人間の肉体の生物学的維持に対応する活動力である。つまり人間の肉体的生命と種としての人間の維持にかかわる活動である[vi]。たとえば単に(単に、にルビ)食事を作ること、単に(単に、にルビ)出産することがそれにあたる。いわれるがままにはたらき食事を与えられることも該当する。労働は人間の生物的側面の充足が目的であるので、理性にとって労働自体は意味を持たない奴隷的はたらきである。

それに比べて仕事workとは、人間として有用である(したがって生物的には不要な)目的をもった工作物を作るはたらきをいう。仕事は器づくりから神殿の建設にいたるまで、自然環境と異なる「人工的」世界を作り出す。そして作られた道具や、建築はそれを作った人間のサイクルを越えて、独自の永続性を帯びるようになる。このような仕事の性格をもって、アーレントはそれを労働の自然性と対立した世界性(worldliness)と呼んでいる。

そして行動actionとは、いきなり人前で唱えられた詩の美しさや、予見できない批判、企て、計画の発生といった、それ自体が目的になりうるユニークな状態の発生である。しかしながらそれはそれ自体としては残らず、その様子は仕事によって記録されるしかないとも述べている。この人間のはたらきの階梯は、コミューンにおける活動のあり方の構造としても流用できるように思われる。

一方のマックス・ウェーバーによるプロテスタンティズムへの解釈は、資本主義が過半を占める近代社会制度における代表的な心性として指摘されたものである。きわめて乱暴に要約すれば、蓄財を抽象化された隣人への奉仕の証=労働の証と同一視することで、本来的に富の蓄積と相容れなかった宗教的救済が連動しはじめたのであった。この連動は、いわば人間のために神があるのではなく、神のために人間があるという彼らプロテスタントの宗教的体質を、人間のために経営があるのではなく経営(資本)のために人間が存在するという資本主義的精神の肯定へと繋げた(荒井直)。「神」のための利益追求が目的となる時、人間の労働はここでは「救済のための」手段と化している。父は労働し、母は出産し、子供は家庭の内外で二重に使役される。プロテスタントにおける労働倫理はまさに資本主義社会をユートピアとする正当化であった。このような一連の資本主義精神に流れる「宗教」的合理化は、多くの宗教的コミューンにとっては、その外側から対立的に関係する経済全般の心性としてたちあらわれる。これから検討するコミューンが特に、性差や、子供の扱いに対して注意を払ったことを、資本主義的に聖化された労働との対立として検討することはあながち外れていない。この対立からは、コミューンへのプロテスタント的労働観の侵入がその崩壊の指標にもなりうるという予想が成り立つかもしれない[vii]

性を振り払うこと シェーカーにおけるコミューン経営の特質

シェーカー・コミュニティ(the Shaker community)は、イギリスにおけるクエーカー派キリスト教徒から1747年に派生したグループである。イギリス産業革命前夜の貧民あふれる都市・マンチェスターで結成された。彼らの信者の家における礼拝は、恍惚による激しい身体の震動や叫び、異音の発生、時には猛スピードで床上を移動するなどの行為を伴った…

[i] コミューンとは本来、フランス、イタリア、スイス、ベルギーなどの「自治体」の最小行政区分をさしていた。歴史的には、1879年のフランス革命時、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、その後革命的自治組織を組織した。これをコミューン(commune)といった。また英語では、共通の宗教を奉ずる仲間たちの群に言及するとき、コミュニオン(commuion)またはコミューナル・グループ(communal group)が用いられる。これは「宗教団体」とも訳される。参照:村田充八『コミューンと宗教 一燈園・生駒・講』行路社1999

[ii] 『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年

[iii] とりわけ19世紀末から20世紀初頭にかけての、オーエン、フーリエ主義者らの全西欧にわたる活動はもとより、ドイツのワンダーフォーゲル運動や、ウェーバーら知識人を主とした解放区としての中央ヨーロッパ、スイス・アスコナ周域、その結果としての現在まで続くナチュリズムは重要である。これら活動と20世紀建築のアバンギャルド活動との隠れたつながりを再検討していくことは、今後重要な史実をもたらしてくれることと推察する。

[iv] 『破られた契約』第一章アメリカの起源神話 p.35, 未來社

[v] 前掲書参照「幸いなことに、いままでにまとめてきた様々な観念を、見事に表現したアメリカ史初期の史料がある。それはマサチュセッツ湾植民地の初代の指導者であったジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)が、1630年,新世界に上陸する前に,航行中の船で行った説教である。(ペリー・ミラーによればウィンスロップこそわれわれ[アメリカ人]の意識を最初に表した人であったという)。「この船を難破から守り、子孫を養う唯一の手段は、正義を行い、人を許し、へり下った心で神と共に歩もうという預言者ミカのすすめに従うことである。この目的を果たすために、我らは仕事に協力して一体となり、互いに兄弟愛で接し合い、他人が必要とするものを与えるために自分の贅沢をいましめ、柔和で優しく、忍耐と寛い心で親しく取引をし、互いを楽しみ、他人のことは我がこととし、共に喜び、共に働き苦しみ、いつも我らの仕事の中の一つの任務、一つの体としての共同体を忘れず,平和の絆のうちに心の一致を持たなければならない。そうすれば主は我らの神となり給い、今よりさらに深く神の叡智・力・善・真理をさとらせるために我らを御自分の民とされ、我らの中に喜んで住まわれ、すべてにおいて我らを祝福される。…人びとは我らの植民事業の成功について語るであろう。主はそれをもって新しい英国(ニュー・イングランド)となし給わんことを。なぜなら我らは丘の上の町となることを考えなければならず、すべての人の目は我らの上に注がれているからである。」…彼は大西洋横断を紅海とヨルダン河の横断に見立て,マサチュセッツ湾が約束の地であるとの望みを提示した。植民地に向かう殆どの人びとは、内的改革・刷新によって深く改心した男女であった。」前掲p.45-6

[vi] 用語の用い方等、部分的に荒井直「「労働」観 キリスト教文化と古代ギリシア」山梨英和短期大学紀要 30, 17-35, 1996-12-10 のまとめにしたがう。

[vii] ここで「生存」とは何かについて、別に問うてみたい。現日本国憲法にいう「生存」権には、アーレントのいう行為・仕事・労働すべてが含まれている。つまり生きること(機能)+存すること(実存)である。しかしながら現実的にそれは生活保護法などに代表されるように、最低限の社会的生命維持の権利として存在している。ゆえに、生活保護を獲得するには、様々な面でその立場に見合った行動の制約をうける。それを受け入れたくなければ、彼らは働く義務を被る。

しかしながら彼らの多くは、不安定な賃労働者に回収される。もちろんそこに、仕事を通じた人生の充実があるかどうかは保証されない。つまり「生存」における、実存的側面は脱落している。無一文者が生存における実存的側面を獲得するには、現時点の日本ではホームレスになり、行政権力の隙間をぬって、自ら知恵を絞らなければ生きていけない。しかしそこでは、一方の生きるという機能的側面は保証されることはない。もちろん理想的コミュニティの生産においてこのような状態はあってはならないことだった。すべてのユートピア構想者が心を砕いたのは、そのコミュンにおいて、如何に生産を高貴なものとするかであった。つまり、労働は避けるべきである。しかし成員を生きながらえさせるために労働は不可欠である。もしくは労働を「仕事」や「行為」にまで高められるような意味付け、システムをつくること。これがユートピア成立の労働的側面の必要条件である。

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、アーキオロジスト。早稲田大学建築史研究室所属、教授、千年村プロジェクト、日本生活学会、日本建築学会など。著書に『動く大地、住まいのかたち』、『セヴェラルネス+』など。
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