ポストモダン前夜−1972年の断層を発端として


がさごそとコンピューターの隅をさがしていると、こんなの書いたなあと思う時がある。そういう時はここに流し込もうと思う。

ポストモダン前夜−1972年の断層を発端として
(*初出『現代建築の軌跡 新建築創刊70周年記念号』1995年12月。はじめての1970年代論。)

●ポスト・闘争とポスト・モダンとの閾
「このつかみどころのない言葉は実に便利なものだ。なぜならどこへ到着したかでなく、ぼくらがどこから出発したかだけしか言い表わさないから」と評論家C.ジェンクスは、自らが第一提唱者として知られる「ポストモダン」の定義に、ややシニカルな補記をつけ加えている(註1)。ポストモダンは1970年代後半から80年代を通じて世界中をかけめぐった共通語であったにもかかわらず、そのスマートな定義はあまり聞かない。当のジェンクスでさえ8種類ものポストモダン的潮流を紹介しているぐらいなのである(註2)。このあいまいな状況は50音順なら「あ」安藤忠雄から「わ」渡辺豊和まで、ポストモダン以降の建築家とされた作家の種々雑多ぶりからも伺えるように、ここ日本において特に甚だしいものがあった。「ポストモダン」というネーミングの急激な氾濫は、多様なモダニズム批判の潮流を手っ取り早くつかまえ、再び消費のサイクルに突入させる役目を果していたのではとさえ勘ぐりたくなる。
また、近代批判でもあったポストモダンは、同じく根底的な近代批判であったとされている60年代末期の世界同時多発的「闘争」にとってのポスト(それから)でもあった。しかし両者のつながりはそれほど単純ではない。なぜなら60年代末期によって切り開かれた地平がいまだ持ち続けている批判力と、その最期にあっては「バブル」経済へと急速に回収された「近代批判」としてのポストモダニズムとには明らかなギャップが存在しているからである。「ポストモダン前夜」における主役とは、このポスト・闘争とポスト・モダンとのズレを検証しうる在り処、具体的には70年代前半のここ日本の建築界に一気に噴出した多様な近代批判をめぐる戦略の群れである。

●建築の拡散と生還
一つのピークは1972年に現れている。『新建築』誌上においても、同年1月号の評論家・小能林宏城の巻頭論文(註3)によって近代建築破綻の歴史が綴られ、4月号では建築家・磯崎新が「主題の不在」をうたい、多重なコード操作による手法論(註4)を提起した。また6月号では評論家・長谷川堯が同年に出版された著『神殿か獄舎か』と併行して「身体性」の復権をめざした日本近代建築批判を展開している(註5)。急逝した小能林は別として、磯崎にせよ長谷川にせよ彼らの70年代的な言説の基本モチーフがこの年に提出されているのである。
しかしポストモダン前夜の主役は、当時すでにその作家的地位を確固としていたこれらの人々でも、あるいはどんなかたちにせよ以前のモダニズムとすでに深くかかわっていた人々でもない。むしろ「闘争」を自らの問題として体験し、すでに近代の神話が消失してしまった場所から出発せざるを得なかった次の世代たちである。「違犯」分子としての彼らの活動の場所は限られていたが、これが逆に建築を実際の建築以外の媒体(たとえばテクスト表現)によって行うという特異な状況をもたらした。すでにメインストリーム的媒体であった『新建築』には残念ながら彼らが登場することはほとんどない。彼らを迎え入れたのは、雑誌『都市住宅』や『建築』、あるいは「情報空間」(72年8月号)に代表される『建築文化』の特集記事などの周縁的ジャーナリズムであった。また原宿近辺に在住していた若手建築家によるARCHITEXT(70-)をはじめとして、以前の運動団体とは毛色の異なったネットワークによって構成されたグループ、学習会が多発したのもこの時期である。この時建築のフィールドは驚異的に拡散するとともに、その困難な状況のなかで建築であり続けることによって、むしろ建築を捉える手法への自律的な意識は飛躍的に高まったように思える。
試しに同じ72年で考えてみよう。同年に刊行が開始されわずか4号で廃刊となった建築月刊雑誌『TAU』は、武蔵野美大出身者による批判的サーヴェイ集団・遺留品研究所や、布野修司ら東大の学生による雛芥子、松山巌ら東京芸大の学生が主体となったコンペイトウなど、当時のカウンター世代を象徴するグループが関与していた。ここでは編集自体の放棄が当の編集者によって目論まれていたように、書き手たちがページをとりあい、自らレイアウトを担当した。その記事内容自体はすでに時代がかってはいるが、アノニマスな日常への眼差し、セルフビルドの実験、あるいは文学、演劇、写真等の表現領域が積極的に介入し軋轢をおこしていく紙面は、建築が周辺領域にむかって拡散してゆく様をありありと映しだしている。
またその拡散は表現領域に限定されることなく、建築を成立させるよりひろい社会的システムにまで及んだ。法政大学講師・倉田康男主宰による高山建築学校が、岐阜・数河の廃校を拠点に開校されたのも72年であった。この私設の建築学校は以後毎年夏期に開催され、既存の建築教育に飽き足らない学生が多数参加した。授業はセルフビルドを主体としたデザイン研修と気鋭の講師による夜間の講義に別れていて、その様子は「ウイリアム・モリスと連合赤軍のノリ」という形容もあるようにかなり熾烈であったらしい。講師自身が批判されることもしばしばで、少なくとも高山の場においては葬られた評論家、建築史家も多いと聞いている。また他領域の研究者(註6)も、この場で寝食を共にした。二年目の講師として招かれた建築家・石山修武、建築史家・鈴木博之は以後70年代を通してこの学校の中心人物となった。石山の自主流通論が高山学校のセルフビルドを鍛え、また鈴木の講義が下敷きとなって著『建築の世紀末』がまとめられた。単純なラディカリズムではなく、高山学校には「近代に疑問を呈する自分」をも批判しうる強度があり、ポスト・闘争としての建築の場をよく伝えている。
試みはその後も頻発する。東大村松研究室に所属していた藤森照信、堀勇良を中心に発足した建築探偵団(74-)は、日本に残る「すべての」近代建築を見るために外に出た。これは当時より意識されはじめた近代建築保存という「歴史」を持たないはずの近代建築自らが抱えた異質性を、「現在」を持たないはずの建築史自らの異質性としても捉えたユニークな活動であった。このほかにも石井和紘における「ジャズ」、より後になるがシルバーハットにつながる伊東豊雄の商品化住宅研究、と枚挙に暇がないように、ポストモダン前夜には実に多様な戦略が存在した。そして重要なことはこれら方法論が「ポストモダン」として建築表現に収束する以前に、実に幅広いフィールドを持っていたこと、そしてそれら試行の核の方こそがむしろ現在まで継続しているということである。

●ポストモダンを一足飛びに現在へ
今となってみればポストモダンは「はしか」であり、その主体は衰えるどころかなお健在である。本来であれば当事者こそがこのパワーの秘密をわたしたちに教示されることが望ましいのだが、しかしこれは叶えられそうにない。なぜならすがる場所もないポストモダン前夜の暗がりの中で、彼らが培ったサバイバルの術はそう簡単に教えられないからである。彼ら以降の世代が、捏造されたポストモダン以後の表現論にうつつをぬかしている間は彼らは安泰であろう。70年代をウラガエすこと。わたしたちが安泰に生きる道はそこにあるように思う。(2980字、ただし註を除く)

(註1)『ポストモダニズムの建築言語』竹山実訳、雑誌『a+u』1978年10月臨時増刊号、p.8
(註2)ジェンクス「ポスト・モダーン・アーキテクチュアの台頭」、新建築1977年10月臨時増刊号『現代世界建築の潮流』に所収
(註3)「公性と私性あるいは構想力と想像力の狭間で」抄録参照
(註4)「手法について」抄録参照
(註5)「メスの建築思想の復権へ−やられながら生む論理として」抄録参照
(註6)現象学の木田元、西洋思想史の生松敬三、比較文学ならびにモリス主義者の小野二郎、80年代になるが言語学者の丸山圭三郎等が参加した。

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、アーキオロジスト。早稲田大学建築史研究室所属、教授、千年村プロジェクト、日本生活学会、日本建築学会など。著書に『動く大地、住まいのかたち』、『セヴェラルネス+』など。
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