遅延する瞬間


以下の文章は、齋藤誠一写真集『領分』新宿書房、2010に寄稿させていただいたものです。

先の1月11日にとりおこなわれたICCでの講評会で砂山さんと永田さんチームとの会話の中でピタゴラスイッチへの愛を説きましたが、その際に思い出したもので、アップいたします。

齋藤誠一さんの写真集『領分』も師匠の高梨豊ゆずりの因果がなにげに連鎖している日常を活写したもので、すごくよいですので、是非お買い求めください。

 

遅延する瞬間
中谷礼仁

1. 因果について(001 新宿区新宿に対応)
「因果律」と「因果応報」との違いは何だろう。

「親の因果が子に報い、可哀相なのはこの子でござい…」

まず因果応報に含まれる善悪をとり除く。すると因果律と因果応報には、原因とそれによってもたらされる結果とのあいだの時間の長さと質が違うのだということに気づいた。因果律は得てしてスイッチとそれに反応した電球ぐらいの速さで間断なく原因と結果とがリレーしているイメージがある。また、それぞれに共通して時間は客観的位置を占めている。
それに比べて因果応報は、原因が「親」で結果が「子」という、少なくとも一世代間の時間をあつかっている。そしてさらには、輪廻という特殊な次元を媒介し、それによって自分という人間が、来世には芋虫になったりもする。その時間はもはやヒトの時間のみではなく、様々に異なった時間をも並走して、なにものかが転身していくのだ。何が原因だったのかはわからない。でも私と私が踏んでいるアスファルトやその裂け目から覗く雑草とは、けっこう因果応報の縁で結ばれているかもしれないのだ。

斎藤が2006年、新宿区新宿で撮影した一枚の写真がこの写真集のシリーズの発端となった。
不思議な一枚である。因果応報によって変転した様々な存在が緊密に結ばれているとでもいおうか。それらは偶然の縁という意味で一瞬なのだが、いわゆる決定的瞬間とは明らかに異なった〈はば〉を持っている。
それらには独特の調和が記録されている。
洗いざらしの白い服をまとった男がいる。散歩に連れ出したイヌが用を足すのを待っているのだろう。と、同時にその彼の足元が接触している大地はちょうど異なる土壌の境目に位置している。一つは背景の土留めの塀が作られたときに撒かれた砂利であり、もう一つは、イヌのいる場所で、より古い砂利である。その時間差は雑草の繁茂の違いから推察できる。イヌはそれゆえに雑草と自らの所用をつなぎ合わせ、男は湿った古い土砂と乾いた新しい土砂のちょうど間にいる。そこが人間の足の裏が快いと思う閾であるからである。
前面には猫が寝ている。簡易アスファルトが陽のあたっていた頃のあたたかさを残しているからであり、これが猫にとっては快い。ヒト、イヌ、ネコの三者が、それぞれに異なる時間を持つ大地に触れながらも、一定の距離で対峙している。イヌや男が少しでも位置を変えたらネコは素早く移動したろう。逆にイヌとネコとが最終的に男の位置を決めているのだ。
さらにイヌの後方を見ると左に連なる万代塀が根元で崩壊しているのを知る。男の背景にあるコンクリート塀は、その原因を解決しようとしたものだ。おそらく無理な造成をしたのだろう。塀の上方の墓地に隣接していた土地の大木を切り倒し地力が弱くなり、その結果つい最近、小規模な地崩れを起こしたのだ。
だからもしこの新しく設けられたコンクリート塀がなかったらたちまちにこのイヌ、男、ネコのアンサンブルは土砂に埋まるだろう。塀と、その上にさらに補強された白く塗られたH型杭と、そのあいだに落とし込まれた白い擁壁には、実はそのような多量の重力が潜在している。そしてその上には幾人もの人々が眠る墓地の様子が部分的に露出してしまっている。霊の重力すらこの白い壁にもたれかかっているのだ。真新しい塀の白さがこの写真の〈光〉を確保している。その白さは洗いざらしの男の服に呼応している。男はイヌの所用を待ちながら、何かを考えている。しかしそれは主体的な考えではなく、それぞれに生まれた経緯、時間の異なる要素たちのアンサンブルに引き込まれた時の空白の心地よさに引き込まれているだけである。ここが〈あきま〉である。ヒトはそれを空間というが、客観的な時間に基づいた瞬間の光景ではない。均質な要素からは絶対に空間は生じない。
斎藤の最初の写真をながめながら、その独特な空間の流れというか、つまづきにそんなことを考えた。

2. 構造と力(写真018 新宿区歌舞伎町に対応)
トリミングの効果とは何だろう。
この写真は明らかにフレーム(鑑賞可能な視界)を制限されている。全体が見えず、にもかかわらず場に力がみなぎっている。
だから先の問いを次のように言い換えてもいい。なぜ視界を制限されること–全体から切除されること–からこのような〈力〉が産出されるのだろうか。

最近ある講演会で、とびきり感性にすぐれた建築家が、柱に潜在する力を感得することはできるのだが、どうしても建築の構造を感じることができないと言っていた。面白い話だと思った。つまり構造とは全ての安定した構築物に適用されるはずの理性なのである。構造が安定している限り、その力の総和はゼロになる。それゆえにそれを理解することはできるが、全体としてその力を感じることはできないのである。その意味で〈構造〉は〈力〉を持たないのだ。それに対してそのような〈構造〉の一部である一本の柱に伝達される力はその部分だけを取り出せば、総和ゼロの一部として、必ずプラスかマイナス側に振れる。人間は一方で悟性によって、この振れ幅の反作用が視界外に存在していることを信じている。でなければ先の構造原理に従えば、世界が保たれているはずがないからだ。しかし現前しているものは明らかにプラスかマイナスか、という〈歪み〉を持っている。ここに認識と感覚上のギャップが不可避的に生じる。このギャップが〈力〉である。つまりトリミングされることによって、むしろ存在は〈力〉を表現するようになるのだ。

この写真によって、切り取られたダクトは、明らかにそのような力を表現している。特に地中深く穿たれたかのような右側の巨大なダクトは、一体どこへつながっているのか。その行く末が人を不安にさせる。この不安はダクトの力である。しかし左側に視線をずらすことで、ダクトに接している壁と地中の間に隙間があることを、ほんの数秒後に知覚する。それによってこのダクトの潜る先が直接の地面ではなく、実は壁とその前の地面の間に設けられた亀裂の下方へ向かっているのだということを理解する。これによって、このダクトが何かもっと真っ当な目的と構造を持っていることを信じる。このギャップがあるからこそ、この写真には不合理と合理が併存するかのような奥行きが与えられている。もしこの写真が左側の隙間を記録していなければ(あるいは右側の部分だけだったら)、まったく退屈で凡庸なものであったろう。

写真の中に自分の目を歩き回らせていると、さらに面白い。この地面は人工的に造成された実はある高さを持っており、その背景の壁が持つであろう足元の地面の高さとは異なっている。つまり前面の地面は写真というトリミングとは別の、後ろ側の壁に対する実体的なトリミングでもあったということである。地面に絶対的な基準高さはないのだ。つまり前面の地面の上で展開する光景は後ろ側の壁とはまったく別の由来や意味を託されている。
その「地面」には実はしっかりと更地にされてもなお残った以前の壁の痕跡が残っている。おそらく何らかの建造物の基礎であったろう。中央には朽ち錆びた金網がめくれ、明らかに枠で仕切られた穴がある。ここにもトリミングが発生している。さらに左側の基礎は解体直後か堅固であったのに対し、右側の地面は雑草が繁茂している。おそらく以前から裏庭ともつかぬ空き地だったのだろう。両者も互いにトリミングされている。そのような場所の特性を仮託するかのようにい元空き地だったとおぼしきところには、バケツがおかれ、誰かが腰掛けて一服した清酒ケースが、往時のまま置かれているように見える。
トリミングは合理性と不合理との併存を許すが、それはとっくの昔の原始時代から生まれてきたことなのだと思う。

3 生きている機械(050か052のいずれかに対応させてください。)
「ピタゴラ装置」が好きである。その装置は、2002年からNHK教育テレビで放送されている知育番組『ピタゴラスイッチ』に登場する。正確に言うと、漫画家ルーブ・ゴールドバーグ(Rube Goldberg, 1883−1970)の描いた機構に着想を得た機械群の一つである。日常品から非日常品に至るまで様々な複数の仕掛けが組み合わされ、それらが次々に連鎖、スイッチする過程が自己目的となっている。もたらされる結果(ゴール)は、旗を揚げたり、コップを倒すなどのたいした目的しか持っていないから、その結果自体も次のスイッチの一つに過ぎない、仮の中断である。
これは冒頭のテクストに書いた因果律とも大いに関係する機械であるが、興味深いのは、仮定された目的に対して、それを実行する過程には多数の道筋が考えられ、その道筋それぞれにはなんらの必然的関係を持っていないということである。それでは「ピタゴラ装置」を統制する巾は存在するのだろうか。結果的に言えば存在する。奇しくも同じ名前のゴールドヴェルグ組曲(J.S.Bach)にはバリエーションという限定があった。それに代わるものとしてこの機械が成立する条件とは、厳密な力学的法則である。連鎖が重力場の影響を受けているということだ。
さてメディア・アーティストにおいても意外と重力にこだわる人が多い。というのも反応が電気的に二進法化されてしまえば、原理的にはその後の連鎖への関係は、関数の設定自体でいくらでもフリーになってしまうからである。同じデジタル信号を異なる回路に接続することによって、複数の連鎖なく、ダイレクトにお湯を沸かすコマンドにもなるし、爆弾を発射するコマンドにもなる。こうなってしまうと、実は予想外の連鎖をもたらすはずであったデジタルが、実は連鎖とは感じられなくなってしまう。これは先に書いた〈構造〉を引き合いに出せば、それが全体性を持つことを想定しえないという、構造にとってみれば異常な事態に似ている。因果律はその意味で生活という慣習、あるいは自然法則によって保たれている。だから必ずデジタル・アーティストは現実の重力場にその函数の結果を持ち込み、そこへの重力からの容赦ない変形や拮抗のほうこそを緻密に計算する。このとき無限は重力による調性の利いたヴァリエーションへ変身するのである。

さて、さらに疑問が浮かぶ。たとえば瞬時に起こらなかった連鎖、遅れて反応するスイッチは存在するのだろうか。例えばある作品を見て感動する。3週間後の週末に何気なく庭に座っている。眼前にあるいくつかの要素がふと何かを構成可能な部分に見えてきて、何かを作ってしまった。このような、3週間前の作品鑑賞と何かを作ってしまったこととの間に因果関係は存在するのだろうか。
先のアナログ−デジタル−アナログ(A/D/A)変換から考慮すれば、それは大いに関係していると言える。
その理由は、端的にいえば人間の頭は精度の悪いデジタル機器だからである。アナログは物理的法則によって保たれている。ところが人間の想念というスイッチは、その物理的法則をいったんカッコにくくることができる。覚えているにもかかわらず本気で忘れてしまったり、勝手に何かを連想し他の経験と合成し、めんどくさいからと他の作業に熱中し、揚げ句の果てに熱を出し寝込んでしまう。しかし感動という経験=スイッチは根深い。その影響は遭遇の瞬間のみならず、おぼろげな想起=遅延するスイッチとして残る。そのコマンドを人は純粋に関知することができず、様々な諸事象を派生させ、思わぬ失敗を繰り返しながら、しかし不断に進む。ところがあるとき、仕方ないとばかりにニューロンが勝手に結びつき、その内的危機を救い、調性のとれた作品を現実に送り返すのである。それを称して人間は製作などという。

しかし実のところ当方は、写真を見るという経験を、何かを作るために行うわけではない。実際その効力などよくわからない。写真を眺めるという経験は、おそらく先のような人間に特別な、遅延するスイッチなのだ。
だからなぜ好きなのかよくわからない写真がある。当方の鈍感によって、その理由が死ぬまでわからないかもしれない。それを不幸とは思わない。それは僥倖である。世界がそのようにあるからであり、そんな写真のような光景が当方の頭の中にもたくさん積もっているからである。

広告

rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、アーキオロジスト。早稲田大学建築史研究室所属、教授、千年村プロジェクト、日本生活学会、日本建築学会など。著書に『動く大地、住まいのかたち』、『セヴェラルネス+』など。
カテゴリー: Uncategorized パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中