アジアの石 インドネシアから Long architectural journey along plate tectonics from Indonesia to Gibraltar


さて、僕にとっては長期になるインドネシア滞在を折り返した。これまで、スラウエシ島(0722-0801)、フローレス島(0802-0806)、ティモール島(0807)、スンダ島(0808-0813)、そしてバリ島(0814-0817)を訪れた。
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インドネシアはプレートテクトニクスの境界運動がその島々の形成に明らかに影響を与えている。ティモールからスマトラをまるで導火線のようにつなぐ火山群。その火山へのオリエンテーションによって意味付けられ世界・社会化する集落。

それぞれの大地はそれぞれが特色のある環境を持っていた。肥沃な盆地、乾いた土地、密林、むきだしの岩盤と砂漠。それらの中で人は居住環境を作っていくのだが、そのときに興味深かったのは彼らの石の扱い方であった。もちろんインドネシアの伝統的住宅の主眼は木造にある。しかし、アジアといえば木造という先入観を捨て、人々の作り出した風景をみれば、石、そして土との強固な連携性も見えてくる。

1. Lemo, Toraja, Sulawesi

最初の興味はトラジャ地方にあるLemoという村の墓場であった。ロクサーナ・ウォーターソンの”The Living House”で見かけて以来ぜひ訪れてみたかった場所の一つであった。その墓場では切り立つ岩盤にテラスにも似た矩形の穴を掘り、そこに死者の生前の姿を模したTautauという木人形を立たせるのだ。集落からは彼岸の岸壁から先祖たちが常にこちらを見ている、交信を送っているように思えるだろう。実際まさに誘うかのようなTautauの手つきなのだ。

焦点を絞ろう。私はLemoの墓場に用いられた岸壁の岩が一体いかなるものなのかを知りたかったのだ。

送信者 20130731 Tanatoraja South
送信者 20130731 Tanatoraja South

マルタでの巨石文明をつくりあげたライムストーンの予想外の軽さに遭遇して以来、僕は石に対する自分のコンプレックスが消え、自分なりにではあるが疎遠であった石のそれぞれの性格を身近に感じられるようになった。その中でLemoの石は一体どのような手触りなのかをとにかく感じたかったのである。今でもテラス状の矩形の横穴は掘られ続けている。儀礼にお金を使えば使うほど高い位置に掘ることができるらしい。だからその石の破片はそこらへんにたくさん転がっていた。

その石はやや緑色、小さい結晶質が含まれている。僕はそれをホルンフェルスではないかと推測した(破片は持ち帰り祀らさせていただく予定なので、専門家にみてもらおうと思っている)。だとしたら、堆積岩が地中深くで大きな圧力を加えられて再びゆっくりとその成分を結晶化させた石の中でも大変硬い石である。もしホルンフェルスを人間が作り出すためには一体どれくらいのエナジーを必要とするのだろうか。
私たちは日々、地球由来の素材を使っているが、言ってみればこれは巨大な地球という工場が自立的に作り出した、半製品なのである。しかし人間がそれをさらに人間化するときに比べ、環境自体がそれを形づくっていくためのエナジーは比較にならないはずである(理工系の教員としてあとで定量的に表現したいと思う。)
インドネシアの人々は、特に石に込められた強大なエネルギーを知悉していたと思われる。石の選定がいいのだ。
たとえばLemoの岩はそれを鑿で彫り貫いていくのだったが、大きく、深く、高いところに掘れば掘るほどいいというのだから。手彫りでそれを掘り進んでいくことはかなりの労働量の投入が予想される。硬い石をあえて掘ることが、富んだ価値を表現しているのである。インドネシアでは、死ぬことにまつわる儀礼に日本人では考えられぬほどの生け贄や人的協力や、金銭を必要とするのだ。

Lemoを含むトラジャでは、死後の死体は”もがり”の過程を自宅で長い間は数年を過ごした後(祀られる資金は貯めなくてはいけないことも一因である)、集落の背後の山へ棺とともに葬られる。トラジャを含むスラウェシ中心部はテクトニクスの境界運動によって海底のプランクトンの死骸の堆積によって形成された石灰層が地上に現れた石灰岩、いわゆるライムストーン層であった。その多くは掘りやすく、あたたかい。その崖や横穴に棺eronが朽ちて白骨が覘いている様は、周囲の雰囲気と同化してそれほど奇異なものではなかった。骨もいつかは土に、そして石になるだろう。

送信者 20130730 TanaToraja North
送信者 20130730 TanaToraja North

この棺eron、崖の突き出しから落ちたら、上げるのに再び相応の儀礼をしなくてはならないそうだ。落ちた棺や骨たちが、崖の麓に寄せられてたたずんでいた。

2. Boawae, Flores

この経験があとを引きずる。つながった気づきはフローレスのBoawaeという集落を訪れた時だった。案内していただいている佐藤浩司氏(みんぱく)が、現集落は1930年代に旧集落から移動してきたことを住民から確認したのであった。フローレス島から合流した林憲吾氏(地球研、在ジャカルタ)とともに三人で旧集落に足を延ばした。

インドネシア全般の集落に言えることだが、彼らにとって死は生と隣り合ったものであり、集落の中心には必ず多くの墓が同居していた。彼らは墓kuburと一緒に暮らしているのである。Bowanaeでは今でも儀礼はやや山中に進んだ旧集落で行うとのこと。そこに訪れてみて眼前に見えたのは、現代彫刻とも思えるような、偶然性が介入した石の造形であった。

送信者 20130805 Boawae, Flores
送信者 20130805 Boawae, Flores
送信者 20130805 Boawae, Flores

フローレス島はつい最近(2013年8月10日)も噴火があったように火山の島である。その地形・地質は複雑で私の理解を超えるものであったが、とはいえフローレスの墓石のほとんどが黒色の硬い平板であった。彼らは墓には2mを超える平板を用い、それを地上から上げる造形をする。おそらくその石は玄武岩だが、この石は彫刻には全く向いていない。うまく割れさせて、石に形を作らせるしかないのである。その様々な組み合わせをBoawaeの旧集落跡地でみたのだった。ドルメン、あるいはメンヒルと言われるものだが、その中でもひときわ立派なドルメンが三角錐状に組み立てられて、彼らの集落の起点ともなる山岳へのオリエンテーションとなっていることは印象的であった。他の集落でもこの石にはたびたび会った。Tutubhadaという別の村の老人に聞いたところこれはBatu-caper(地元名はLipi)という名前で、山の中腹でもう自然に割れているというのだ。男しかとりにいくことはできない。そこで儀礼をして、数km、ときには数十kmを引いてくるのだそうだ。他の村では別の呼び方があったが、いずれも、遠隔から持ってくることに意義があるのは同じであった。下の写真は運良く石採取場が近くにあった集落でのその様子である。

送信者 20130806 Koanara, Jopu, Floes

フローレスの墓石は総じて黒くて硬かった。その硬さは人文的な彫刻を拒否した。偶然性に満ちたその素材自体が生みだしたかのような形態を人間が組み合わせていた。そこにやはり自然自体の労働量を敏感に感じ取る人間の感覚が感じられたのだった。

3. Rindi, East Sumba. Wainyapu, West Sumba

さてスンバ島の景観はがらっと変わる。むき出しの岩盤、砂漠が特に島の東側を支配していた。これはオーストラリア大陸から乾いた風が吹いてくるためである。そのため人々の暮らしも厳しい。実はスンバ島は、元オーストラリア大陸の一部が漂流したものなのだ。だから地形・地質もまるでフローレス島とは違っていたのである。

スンバ上陸初日に、東スンバで有名な集落であるRindiを訪れた。集落の中心に墓があるのは当然だけれども、その姿はフローレス島とは全く異なっていた。石質は石灰岩である。石の名前を尋ねたらBatu-cabur。辞書で調べるとまさしく石灰のこと。ライムストーンのいわれ通りライムをかけたら道ばたの石は泡を吹いて溶けた。ライムストーンは建築の父。鍾乳洞を形づくるのも溶けたライムストーンである。そして切り出しも彫刻も容易である。Rindiの集落の真ん中に鎮座する石は巨石群と言われているだけあって大きい。

送信者 20130808 Rindi, Sumba

巨大なマッスの岩が持ち上げられ、その上に精密な意味を構成する彫刻Benjiが屹立していた。これが人間の労働量を的確に反映しやすい石灰岩が担う表現方法の品質である。緻密な彫刻が可能なのであるからそれはできるかぎり行うであろうし、もともと相対的に軽い石だからそれを大きいブロックとして持ち上げる表現が端的なのである。
石は一時間ほどのところから切り出してきて運ぶのだと言う。埋葬するときには、水牛4頭、豚10頭を屠殺し、供えなければならない。墓を作る時はどのくらいかと聞いたら、想像もつかないと集落の人は言った。この村は元王族であり相当裕福な人々であるが(耕作地を人に貸し与えている)、墓がそれほど増えないのは、その墓が個人ではなく氏族male-gaを代表するものであるからである。

スンダ島の最終日、私と林氏は西スンダの先端にある集落にいた。新しい地を求めて離脱した佐藤氏に教えられていた集落Wainyapuである。この集落はとりわけ雰囲気が異なっていた。その理由は立っている家に比べて、墓石の方が圧倒的に多いのである。グーグルマップを使わせていただくとこんな感じである。

大きな地図で見る

墓場にある村と言っても過言ではない。その理由を尋ねてみると、墓の単位が夫婦のつがいだからであった。氏族の墓に比べてその数が全く桁が違ってくることに気づくであろう。ここでは墓石はWatu-halaと言った。つい今月も石切り場から100人で引っ張ってきたと言う立派な石があった。

送信者 20130812 Tarung, Wainyapu

石切り場はどこかたずねると、1km先位のところにあるという。長老に連れて行ってもらった。

送信者 20130812 Tarung, Wainyapu

そこで遭遇したのは、浜辺の層の下に眠る莫大な量の珊瑚石であった。まだ固着もゆるく指で力を入れて圧すと、崩れて砂になっていく。よく見るとひとつぶひとつぶが珊瑚の遺物であった。

その埋蔵量は、この村の墓石に使う限りにおいては無尽蔵と思えるくらいまだまだあった。まるでモノリス誕生の瞬間である。

送信者 20130812 Tarung, Wainyapu

これからもたくさん墓を作れますねと通訳してもらったら、その長老はうれしそうに笑っていた。

浜辺にでてみた。川を挟んで向こうにはこの村と同じく有名なTossi村の勇姿が見える。石切り場と海の間には水が湧いている。村の名前はこの湧水に由来するのだという。

集落を集落足らしめる一つの大きな要素である墓石のビルディングフードをつなげるように歩いていったら、そこにダイナミックな地形・地質、そして風景が待っていてくれた。

送信者 20130812 Tarung, Wainyapu
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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、早稲田大学建築史研究室所属、教授、日本荒れ地学会、日本生活学会、日本建築学会などなど。その正体はResercher of temporal architectural expression.
カテゴリー: "On the Edge Tour 2013", Uncategorized タグ: , , パーマリンク

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