グローバリゼーションと付き合う方法–How can we live with “Grobalized” world? : Long architectural journey along plate tectonics from Indonesia to Gibraltar


1月から6月末まで、インド、ネパール、イラン、トルコ、ギリシャ、マルタ、シシリー、チュニジア、モロッコと、ユーラシアプレート境界沿いの居住文化のあり方を実見してきた。

本来の目的以外のところで大きく実感したことがある。それは20代前半の私がさかんに海外に出かけていた四半世紀前に比べて、格段に世界が均質化したことだ。
奥地と言われているほとんどのところにwi-fiはあるし(電話回線ぐらい遅いが)、ホテルや交通手段はインターネットを通じて申し込む。
宿探しに歩き回る苦労が減った分、予約したホテルへの違約金を気にし、交通手段の獲得に一日ならんで失敗するようなことがなくなった分、e-ticketのためのプリントかスマートフォンの持参は必須である。大きくは人間を取り巻くシステムが変わっているわけだ。
では土地はどうなのだろう。もちろん具体的な特性は全然違う。しかしそれを取り巻くシステムは同様に均質化している。おそらく急成長したムンバイやカタールのような投機的な都市開発の波が、着実に他の地域にも行き渡りつつあると感じた。
ベルリンの壁崩壊は、資本主義の血である資本にとって、革命的なことだったに違いない。つまり売買交換できる土地の総量が、一気に二倍以上になったであろうからだ。以前出かけた中欧でもホテルのロビーには携帯で常に何かを売買しているような男どもがたむろしていたものだ。
東京がその後リスキーな投機目的としてあまり狙われなくなったのは、そのためだと思う。いまや他にもっとおいしい場所はあるのだ。その後も今まで見向きもされなかった土地は次々に投企可能、売買可能な商品へと変わっていった。
たとえばカッパドキア、私の師匠によれば、30年ぐらい前に同地を調査した日本の建築史家たちは、カッパドキアの周辺に宿をとり調査をしたと言う。彼らを受け入れるだけの宿がカッパドキアになかったからだ。カッパドキアの土地は耕すには依然不向きである。ぶどうが名産なのは、そのやせた砂質の土地に合っているからだ。しかし世界遺産化を前後にして観光化の波が訪れると、その土地はユニークな絶景リゾートとして生まれ変わった。

外国資本が一気に押し寄せ、もとの住人たちから住まいを買い取って、それらがホテルに変わっていったのである。
もちろん元の住人たちには、当時では信じられないほどの金額が買収に当てられた。しかし今では当時の100倍あるいはそれよりも一桁多いぐらいの値段で穴居が売買されているのだ。元住民たちの怨恨は深い。また伝え聞いたところでは、別の土地でも同様の傾向がある。たとえばすでにモロッコのマラケシュの旧市街のほとんどは他の土地の人の所有になっていると言う。維持できない元住人たちが手放しているのだ。世界遺産のフェズもしだいにそうなりつつあるという。
資本家にとって、場所は利潤を生み出す手段だから、別にそこに住むわけではない。しかし昔からそこに住んでいた家族たちが、その狂乱の中で自分の空間を確保するためには、経済関係をその新しいレベルにのせないと行けない。これは並大抵なことではない。
私はお金がそれほど潤沢ではないし、ホリデイ・イン・スタイルのどこでも同じサービスが性に合わないので、常に特色のある中級ホテルをさがそうとする。するとそこはだいたい、叩き上げの地元の人がそこに生きるために設けたゲストハウスであった。日本で言えば民宿。そのなかから今回は3つのケースを紹介したい。彼らは相応の生きる知恵を持っていて、滞在中私の教師として、いろいろなことを教えてくれた。その知恵の幾ばくかを書き留めておきたい。

1. 北部インド、ウッタラカンドのアッシシ
すでに報告しているが、ウッタラカンドの大地と住まいの関係を考えながらbuildinghoodという概念を発案させてくれたのは、ミスター・アッシシの経営するHimalayan Village Sonapaniである。西洋人好みの上品なテイストも取り入れた気持ちのよいバンガロータイプのゲストハウスだった。夜になるとだいたい停電し、なかなかその寒さに耐えられない日もあったが、ヨーロッパ製のソーラシステムによる給湯はいつでも熱湯に近く、助かったものだ。ネットからも完全に遮断されていた。

所有者のアッシシの経歴は興味深い。元観光課に所属する政府官僚であった。しかしその役目がデスクトップで各地の観光業績に対し批評するだけの立場であったことに嫌気がさし、退職。Sonapaniという小村の土地を取得しゲストハウスを建設。その後、小作人の多いこの寒村の地主の一人になり、リーズナブルな賃貸料をとりつつ、村人を積極的に雇い、彼らの場所に新しい施設をつくり、いわゆる集落トレッキングなどの活動を行っている。
面白い人なので、ある日早速、建設中の現場に同行することにした。少し離れた場所の廃墟をリノベーションし、村のパン屋を作るのだと言う。以下がその時の同行ビデオの抜粋である。4つのシーンで構成されている。
一つは、この高山地帯での村の作り方である。彼によれば岩をはがし、それを切り出して家を建てると、耕作可能な平坦な土地ができあがる。これを繰り返して棚畑と集落の風景が徐々に出来上がっていくのだという説明。これがbuildinghoodの考え方のもとになった瞬間の様子である。
二つめは、村の人が松の支枝を伐採している様子である。当初木をまっすぐに伸ばすための枝払いなのだろうと私が質問しているところから始まるが、実は電気のないこの土地で燃料にするための小枝取りであることがわかる。それゆえ、枝払いは根元ではなく、必ず人が上にさらにのぼれるように、はしごのような形状で枝を少し残しているのである!
三つめは、今作っているパン屋さんが位置する村の全景(みごとな耕作地)と実際の石切現場である。職人さんの石の整形の様子を収録してある。
四つめは、その建設現場である。彼の建設思想が披露されているが、最後に私は、図面はどうやってひいたのかと言う愚問をあえてしている。それに対する彼の回答が最後のシーンである。

「僕は寄付者に報告をしなければいけないNGOではない。独立した経営主だ。」と言う彼は自信にあふれている。それを後押しするのはここを訪れた世界各地に生息する優秀な彼のサポーターや友人である。子供なんかの修行にはもってこいだと思った。
わたしはここで美しい連関に満ちたbuildinghoodの一つを見たのである。

2. トルコ、カッパドキアのファルーク
彼についてもすでに報告したが、痛風で倒れた僕に新しいホテルの石壁作りに参加させた他、カッパドキアにおける自分の家族史をいろいろ伝えてくれた人物でもあった。2013年5月下旬の一週間を宿泊。宿の名前はKismet Cave house

彼の子供の頃(僕より4つ下である)、カッパドキアはきわめて厳しい土地で、主食がなくなって、木の実で二週間過ごさざるを得なかったなどの子供の頃の経験をいろいろきいた。ちょっと涙なくしては語れない話もあったが(実際彼は泣いていたのだが)ここでは割愛する。
痛風になってからは、彼の親父が守り抜いてきた近くの農家で晩ご飯をいただいていた。彼はちょっとした食事の残りかすもすべて食べるように僕に命じた。ホテルでは見られない顔だ。その簡素な食卓にあった長ネギが強烈にうまかった。その次の日に現地のスーパーマーケットでネギをさがしたのだがない。彼に理由を尋ねると、そもそもその長ネギは彼の家の裏で栽培しているものだったからであった。売り物ではなかったのだ。
1週間、何もすることがないので彼の次のホテルの建設現場に連れて行かれた。そのホテルは彼の本拠のギョレメ村ではなく、もっと高級なホテルが集まっている村である。その住居を買い取り、現在自分が監督になって新しいホテルを造っている。現地の建築審査は当然対応するが、建築家は入れないと言う。「建設期間が延びるし、イスタンブールから来る彼らにいつもワインを用意するいわれはない」とのことで彼の現場は早い。

「このホテルができたらもっと金持ちになるな」と私がきくと
「いやこのホテルは売るつもりだ。この村は俺の村ではない。」と彼は答えた。

3. モロッコ、フェズのヒシャム
2013年6月下旬の3日間をフェズのモロッコで過ごした。フェズと言えば世界最大のイスラムのメディナ(旧市街)であり、市街を囲む門から目的の伝統的な住居RiadをベースにしたゲストハウスRiad Rcifにつくには絶対にお迎えが必要な迷路を通らなくてはならない。さらに住居の内側も中庭を中心としたもので、オマケに私の宿泊先はこのRiadで唯一設定されたシングルルームで、何のことはないペントハウスに泊まっているので、そこに自力でたどり着くまでに二日間を費やした。旧市街の門から私の泊まった部屋にたどり着いて、洗濯物を取り入れるまでの一部始終である。

さて、初日、私を出迎えてくれたのはヒシャムというマネージャー。重い荷物を中庭に降ろしてようやくくつろぐ私を、きちんとソファに座らせ、約30分間のこの家についての講釈がいきなり始まったので肝をつぶした。彼いわく、
「この家は400年前にできたもので…」
「もとの貴族がここを売るにあたり、単なるゲストハウスではなくフェズの文化の神髄を伝えられるような社交場にもなるように願い…」
「約6年の歳月と莫大な費用を用い、本格的な修復をし…」
「それを担当したのがフランスで保存学を学んだ私ヒシャムである。この家は…」

「ムッシュ・ヒシャム」と私。
「何?」
「すべての客に同じようなガイダンスをしているの」
「そうですが何か」
「中庭にたどり着くまでのコリドールに、修復時の写真を何枚か額にいれてかけておくと、客はもっと聞く気になるし、説明も短時間ですむと思うよ」
「お、それはいいアイデアだ。あなたの職業は何だい。日本人。」
「あなたと同じだよ」
「あしたUSBメモリーにいれて修復中の写真を差し上げる」
というわけでもらった写真から、許可を得て何枚かの写真をアップする。
Recovered_JPEG Digital Camera_163
Recovered_JPEG Digital Camera_171
Recovered_JPEG Digital Camera_176
8zikp
Photo 007
Recovered_JPEG Digital Camera_214
確かに、相当くたびれた家を細心の注意でよみがえらせたことがわかる。昔のタイルをなるべくそのまま残したディテールもなかなかのものだ。彼自身が書いた修復の経緯はここに書いてある。
フェズのメディナにはまだまだこのような職人が生き残っている。世界遺産でやや浮き足立っている状態であるが、その究極の迷路が幸いして、全体が観光化しきれているわけではない。またこのリアドのオーナーはオーストラリア人である。先に書いたマラケシュでは、リタイアしたヨーロッパ人が古民家を買い取り、同じような修復を施していると言う。メディナにホリデイインスタイルは入りようがないのでこのような個人を主体とした海外資本との提携関係が生まれるのだとも思う。この迷宮では入りようがない!

修復されたゲストハウスを撮影させてもらった。次はシングルルームではない部屋に泊まりたいものである。


このゲストハウスで、私はゆっくりした時間を過ごし、フェズで唯一住んでいる若き女性日本人芸術家にいざなわれ、さらに深いフェズファミリーの邸宅に招待されたが、その話はここでは割愛する。
さてヒシャムとかなり仲良くなって最後はハグして別れた。帰りしな、トリップアドバイザーへの評価をお願いされ、きちんとレビューした。トリップアドバイザーこそ、観光業界のグーグルである。一銭もとらない振りをして、紹介料を仲介のホテル業者から取っている。生き馬の目を抜くグローバリゼーションのなかでいろいろな生き残りの方法があるのであった。

そのほかにもサントリーニの民宿とか、いろいろがんばっている地元の人にあえて面白かった。がんばっている地元経営のゲストハウスにはすべてトリップアドバイザーに書き込んでおいた。執筆者はrheninである。

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、早稲田大学建築史研究室所属、教授、日本荒れ地学会、日本生活学会、日本建築学会などなど。その正体はResercher of temporal architectural expression.
アサイド | カテゴリー: "On the Edge Tour 2013", Uncategorized タグ: , , パーマリンク

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