“Buildinghood” 生活と建て方の関係 プレートテクトニクス境界の旅からの報告、インド編 Long Architectural Journey along Plate Tectonics


*この原稿はイスラム地域研究機構の求めに応じて本日書き上げたものです。論文にしてみるとどうなるかということを挑戦してみましたが、まだ研究ノートの段階です。

●はじめに ・プレートテクトニクス境界の旅とは何か 私は2013年1月より9月にかけて、ユーラシアプレートと他のプレートとの境界線周囲の地域を沿うように、各地の居住文化、さらに大きく言えばその地域の文明の成立条件としての地勢を実見している。 周知のようにユーラシアプレートは日本の南北軸をつらぬき、国土の地形、地質の成立与件となっている。のみならずこのプレートは、沖縄、台湾、フィリッピン、そしてインドネシアと続き、その後インディアンプレート、アラビアンプレート、そしてアフリカンプレートと接触している。つまり日本はいくつもの多様な世界各地との間に、ユーラシアプレートの境界圏という、共通な条件を持っているのである(図1)。 図1

その条件は大きく二つの性格を持っている。ひとつはプレート運動のいくつかの類型やその地域固有の条件が重なって、何億年ものタイムスパンによって生み出されてきた各地の特色ある大地の姿である。これがひいては多様な居住文化を生み出してきたのである。そしてもうひとつは境界において短期的、周期的に発生する地震活動である。これは私たちの生活を一瞬にして崩壊させる破壊的側面を持つ。 つまりプレート運動は、人間のかたちづくってきた文明・文化の前提そのものであると同時に、それをしばしば悲劇的な崩壊過程にいたらすという、まさに創造と破壊の両面を兼ね備えている。この両面が備わった各地域において人間がどのような居住文明・文化を紡いできたかを大きくつかまえたいと思ったのが、この実見旅行の発端であった。2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、私たちがつくりあげてきた近代生活の脆弱性が改めて浮き彫りになった時点において、このような実見活動が今後何らかの知見をもたらしてくれるであろうことを期待しているのである。 さて私が、各地を訪問するにあたっては、大きくは4つの地域に分けて、準備のために日本と行き来しながらそれぞれを訪問するという方法をとった。以下がその訪問地域である。

・インド・ネパール(2013年、1ー2月)

・イラン(同2ー3月)

・トルコ、ギリシャ、マルタ、シシリー、チェニジア、モロッコをへてジブラルタル海峡(同5月ー6月)

・インドネシア諸島(同7月ー9月)

もとより訪問困難な地域が抜けているし、また台湾などの日本に近い地域については今後の訪問地として現時点では割愛している。しかしながら現状の計画においても、諸島、山岳地帯、砂漠、海洋地域とプレート運動のもたらす多様な自然環境と居住文明・文化との関連を大きく知ることはできるであろうと考えている。また調査についてはテキスト記録の他、位置情報付き写真、現地でのインタビュー動画、GPSによる行動の軌跡をすべて記録することにして、後の研究者の用に供することにした。位置情報付き写真についてはすでに公開済みである(註1)。 この原稿の執筆時点において、実見旅行は、すでにジブラルタル海峡まで到達している。以降インドネシア諸島の居住文明・文化を専門家の協力を得ながら実行予定である。なお早稲田大学・イスラム地域研究機構の深見奈緒子先生には、インド、イラン、北アフリカ地域についての情報提供のみならず、イラン調査に個人として参加いただき、その知識を惜しみなく与えてくれた。ここに改めて多大なる感謝の念を表わすものである。 本論においては、2013年2月8日に京都龍谷大学にて開催されたイスラム地域研究機構の合同会議で行ったインドの訪問地に関する検討報告を文書としてまとめたものである。なおこの報告は、あくまでも発表途上のものであり、研究ノートの位置づけをでるものではない。さらに各地における地形・地質の特性については主に”Geological Map of the World“CCGM発行、2010を基本情報とし、インターネット上で提供されている各地の地形・地質図を副次的に参考にしている。筆者にとってはこれまでなじみのなかった学問領域であるので、大まかな特性を著している同資料が好都合であったし、またこれ以上の客観的な地形・地質情報を提供することが難しいことをあらかじめ了承いただきたい。

●Buildinghoodという概念−インド・ネパールでの考察方法 インド・ネパール地域には、2013年1月2日にデリー入りし、同2月3日にカトマンズより日本へ帰国した。インドでの友人の研究者の家に寄宿した。その約4週間強をおよそ1週間ごとに分け、前半を訪問旅行とし、後半をまとめに用いるという研究のインターバルで行った。また全体の資料収集をデリーにあるINTACH(The Indian National Trust For Art and Cultural Heritage )において行った(註2)。これによって4つの訪問地を訪れ、それらの比較を行うことができた。以下がその訪問地である。いずれもプレート境界圏で地震多発地域である。(図2) 図2

1. グージャラート州(Kutch, Mandvi, Mundra, Badreshwar, Dholavira) 2. 西ベンガル州 (Dajeeling, Kalimpong) 3. ウッタラカンド州(Satoli, Almora, Jageshwar) 4. ネパール・カトマンズ郡(Kathmandu, Bhaktapur, Nagarkot, Bungmati等)

●陸の孤島の元古代文明 今回はウッタラカンド州調査までを報告する。 訪問順番について特に大きな理由はなかったが、インダス文明の一つであるドーラビーラを最初の訪問地とした。同地を訪れ、遺跡の地形・地質との関係を検討することで、同地が文明圏として成立した根本条件を検討することとした。 現在のドーラビーラ遺跡の立地は航空地図から確認するかぎり、およそ文明の発生のしようがない荒地である。遺跡の周囲はグレートランと呼ばれる塩湖によって覆われ、乾期には塩の砂漠となり、雨期には濃厚な塩分を含んだ湿地となる。ドーラビーラはそのような「海」の中で存在するいくつかの島の一つに立地している。この島(Khadir島)の地質は中生代に形成されたものであり、新生代に形成されたグレートランの堆積層より古い。ドーラビーラの居住がはじまったのは、紀元前2900年頃からで、紀元前2100年ごろから徐々に衰退に向かっていく。そして短期間の放棄と再居住がおこなわれ、最終的に放棄されるのは、紀元前1450年ごろである(註3)。また、この地が文明圏として栄えていたころ、この島の周囲は現状のような閉ざされた内海=塩湖ではなかったことが知られている。つまり現在の荒涼とした自然環境はドーラビーラの成立条件とは切り離して考える必要があり、インダス文明を成立させていた河川の経路が紀元前2000年ごろの地殻変動によって変更された可能性があることと相まって、繁栄期のドーラビーラは河川による交易と氾濫農耕を中心とした場所であったと推測されている。 さて同都市は矩形をなしており、おおきくは居住地と城塞で構成される。その規模は一辺が700m前後であり、また南西部に一辺140mほどのひときわ高く造成された城塞がある。現地で配られたパンフレット(”DHOLA BVILA HARAPEN METROPOLY” Archaeological Survey of India Vadodara Circle, Vadodara, 2010)によると、ドーラビーラはその衰亡までを、一端その存在を忘れ去られ別の異民族が小集落を築くまでの第7期までに分けることができるという。焼成技術を持つ初期的な集落がすみついた第一期をはじめとして、現在の主要要素がかたちづくられたのは第三期であり、その後の第四、五期は衰退期に連動した都市のメンテナンス期として認識されている。 さてドーラビーラの生存条件を検討するにあたって、最も重要なのは、第三期に現在のかたちに形成されたとされるSourthen Reservoir(貯水池)である。貯水池跡に立ってみると、この貯水池がいくつかの拡張工事をへていたことが知られる。そのなかで最も注目すべきは、くりぬかれた単一の岩盤層である。その岩盤の主成分は石灰岩であり、先の地質の成立年代と矛盾しない。いつの時代にくり抜かれたかは現地においては判然としなかったが、その高さは4m程度であった。くり抜かれた石には高低差があり、低い部分は同種の石灰岩を積んで貯水機能を保持していた。またさらに後に保水機能を高めるべくさらに焼成煉瓦を用いてかさ上げが行われていた(図3)。 図3

ここで注目すべきなのは、岩盤をくり抜くという大規模な工事が最初に行われ、その後の保全工事はより簡易な工事内容となっていると推察されることである。この貯水池の成立は第三期によるものと先のパンフレットでは説明されていたが、土中に眠っていた石灰岩層が当初より自然の保水機能をもっていた場所であったことが予想された。ドーラビーラの地選定において、居住者への水補給が当然根本的な必要条件であったのであろう。この保水場所が起点となり、土木技術の伸展に従い、同集落が都市的なものへと展開していったのだと判断できよう。 加えて興味深いのが現在の城塞をかたちづくる焼成煉瓦の傾斜が、第三期より後に発生した地震による城塞の崩落を前提としていたことであった。地震によって以前の勾配を保てなくなったまま、地震がもたらした勾配を補強する形で新しく煉瓦が積まれていることが現状のドーラビーラ遺跡固有のカーブを形成しているのである。 小結として、ドーラビーラの成立条件には水源の存在という人間居住にとって最も重要な要素があり、連結する河川による交易や氾濫農業によって栄えた。しかしながら、河川の移動や、内海化という環境の激変によってこの際この都市の一つが放棄されるにいたったと言うことが確認できる。また現在のドーラビーラの姿と地震による崩落が不可分であることも注目したいところである。

・日射しと地質 ダージリンでの発見 次に向かったのはダージリンであった。ダージリンは紅茶栽培と避暑を目的とした英国による19世紀以来の開発によって発展した地域である。ダージリンのある西ベンガル州は、東をブータン、西をネパールにはさまれたインド北東部の山岳地帯である。2012年9月にはより北部のシッキムにてM6.9の地震があり、多くの地滑り被害が発生した地域である。 さて大規模集住地としてのダージリンは紅茶、避暑開発ひいては鉄道の敷設により発生したものである。つまりそれ以前は集住の場所としては格段に優れたものではなく、この地域の一地域にすぎなかった。つまりダージリンの実見において期待できるのは、そのような近代文明や産業の流入に伴って成立した集落の持つ性格の特異性であった。 さて、私はインドの友人のつてをたどって19世紀中盤に建設されたPineridge Hotelに宿泊した。ダージリンの頂部の南面する先端に位置する一等地であった。しかしダージリンの冬は厳しく、この古風なホテルの貧弱な暖房設備の中で、深夜私の身体は冷えきっていた。インドの高地における電気供給量はきわめて僅かであり、このとき如何に日本にいるわれわれが電気にならされているかを思い知ったのであった。この苦境を抜け出すべく、私はベッドから抜け出して、直感的に日射しがさし始めた広場へと向かった。すると同じような意図を持ったと思われる人々が多数日光浴をしている場面に遭遇した(図4)。 図4

朝の日射しは暖房条件の貧弱な高地においては水と同様の重要な生存条件であることを身を以て実感したのであった。さて、ここでダージリンの発達した立地を検討してみると、きわめて奇妙なことに気がついた。ダージリン全体が南北軸をもつ山系の西側、つまり朝の日射しをとりいれるには全く不利な側に集中して立地しているのであった。この傾向が特異であることは次に説明するウッタラカンド州調査との比較においてさらにはっきりとした。西側斜面には氷が残り、午後になっても地面は凍っているか幾分溶けてぬかるんでいるという劣悪な条件だったのである。 ダージリン鉄道も同様に西側に敷設されていた。その理由を知りたくてダージリンのある山系の東側側面が一望できる箇所にまで向かい、東側集落の立地状況を確認した(図5)。 図5

すると不思議なことに、西側に比べて集落が大変乏しいのである。この理由は地形と地質を一瞥することによって推測することが可能であった。東側の山の斜面には至る所に玄武岩系の固いが方位性を持った岩盤が露出していた。地質図において同地域は古生代の地質が露出した場所である。つまりプレート運動の褶曲作用によって地面深くに眠っていた、圧力によって変成岩化、つまり再結晶することによって方位を持つにいたった古層が露出している場所なのであった。その上に展開する水はけのよい風蝕による砂が積もった西側側面が茶の栽培に適していたのであろう。つまり西側はその岩盤の方位性において、集落や産業や鉄道の荷重をささえる垂直方向として面しているのであるが、東側は斜面に対してほぼ平行であり、その結果集落や植生をささえる場所が僅少なのであった。おそらくこれがダージリンが日射の少ない西側を中心として発達した理由であろう(図6)。 図6

・集落の立地傾向とbuildinghood ウッタラカンドでの総合的分析 これまでに居住文化をささえる、地盤、水、太陽という最も根本的な要素について、個別にその根本性を検討してきた。 さて、次に向かったのはネパールを越えて、さらにインド北部に展開するウッタラカンド州であった。インドの既知の設計組織に紹介してもらったSatoli村にあるゲストハウスのSonapani villageに宿泊して、周辺のヒマラヤ山脈の下方に位置するAlmora, Jageshwar等に赴き集落立地の様子を検討したのであった。インドでの調査最後となる今回は、加えて現地インタビュー可能かつ実測可能なニューデリーの協力学生の参加を得て、同地に点在する実測可能な住宅の廃墟や現在生活している家について9件を、立地条件とともに検討することができた。 さて同地も山岳地帯である。古生代から中生代の古い岩盤が褶曲して露出した場所であり、時たま東西方向に火山性の層が挿入されている。さて同地に赴く前に訪れて見たい土地があった。インド人にとっては新婚旅行の場所としても名高いNainitalである。地質図を見ると同地がまさしくインディアンプレートとユーラシアプレートの衝突の始まりの箇所であり、と同時に航空地図を見て確認するに、異なる地形が衝突したことによって山上に湖が形成されたかのような姿をしているからであった(図7)。 Nainitalに訪れて驚いたのは、斜面に展開する観光客用のホテルの立地の水平的な規則性である。それぞれ個別の施設なのであるが、見事なまでにその立面高さに秩序が感じられたのである(図8)。

図7図8

これが無意識のうちに形成されたのであったとしたら、これは人間による計画ではない大地のレギュレーションが機能している可能性がある。その可能性を検討項目におきながら、さらに上部のAlmoraに訪れたとき、やはりその地にも同様に立面のレギュレーションが存在していた(図9)。そして隣接する保護地域の山系の立面を眺めると予想通り、岩盤の層理がきわめて整然としているのである(図10)。 図9図10

このような整然とした地層の層理の存在は同地域の生活と集落のでき方の特性に深い関連を及ぼしている可能性があったため、同地域の民家実測にあたっては、可能な限り、家を建てる際の条件の他、それと生業との関連をヒアリングすることとした。 英語にlivelihoodという単語がある。社会学的な用法でいけば、ある地域の人々の生産を支える生産関係のことであるが、これに関連した項目として家の建て方と言うものも考えていいのではないかと考えるにいたった。それをここでは造語ではあるがbuildinghoodと命名することで生活の中の建設条件を考えてみようとしたのであった。 さて、私たちが宿泊していた施設はユニークな施設で、若手官僚が政府の仕事に嫌気がさしてリタイアし、Satoliという村の多くの土地を所有し、村の人々を雇用しながら、村全体の活性化をはかるという夢のような作業に没頭している人物がオーナーであった。当然彼は村の名士であり、それによって私たちの実測も容易に進んだのであったが、彼のbuildinghoodに合致した説明を紹介する。 まず山の斜面を開墾するのだが、この地域は岩と土が混在する場所である。 その岩はある程度の方位性を持つが、容易く崩れるほどではないので、人間が衝撃を加えると規則的なモデュールの切石となって組積材料として使われる。 それら建設用のための石を取り除くと、そこには土の層があり、そこを用いて、棚畑やアーモンド等を植えて生業とする。 以上、このような生活連関の中にbuildinghoodが位置づけられているのであった。 私たちが実測した住居の特性はおよそ以下のようである。

・建設現場の近くに個別の石切り場がある。 ・平屋、あるいは二階建ての一辺およそ6mの正方形平面モデュールの石積みである。 ・そのモデュールを組み合わせて増築等を行う(図11 増築をしめす壁の痕跡、付加石と立て目地)。 ・聞き取りによって1世紀を近くをへた建物では露出した岩の上に建っているものがあった。また居住者は岩盤の上に立てると丈夫であると主張する。 ・自ら建設するときもあれば、専門業者に建ててもらうこともある。 ・新しいコンクリート造の建物が車両が通行可能な場所では激増している。これらの建物に伝統的な住居におけるモデュールの存在は希薄である。

よって伝統的居住のモデュールの存在は材料からくる構法的制約とより強く建てることの伝統的な考え方によって成立していたと考えられる。 さらにこれを立地条件との関係に拡張してみると

・水が要る…山腹の湧き水、政府による水源からの供給、川からの取水

・太陽が要る…特に午前中に光が当たる場所が好まれる。寒冷地の場合、光が当たらない場所では、冬の場合午後でもフロストが残る。

・建設地が要る…岩だらけでは無理、砂だけでは無理。岩と土との混在の場所が好まれる。人は岩を切り出して家を造り、そのあとが棚畑として成立する。

・建設素材が要る…適度に耐久性があり加工も可能な石が近傍にある。あるいはそれに代わる煉瓦生産(ネパールの場合)が可能である。

・耕地が要る…棚畑に使う場合、建設地との深い関係がある。 これら各要素は集落立地を決める各マトリックスとして複合的に検討される可能性がある。 図11

●結論 建築学を地質や地形との関係、さらには生活連関の中ででとらえ直す必要性 以上、人間の居住文化を検討するにあたって、きわめて基本的なことがらのみをとらえ直してきた調査であったが、以降でもこの目的は変わらず行われている。取り急ぎインド部分をまとめてみたが、これもまたきわめて当然なことなのであるが、建築学を地質や地形との関係、さらには生活連関の中ででとらえ直す必要性を痛感した。大地はそもそも建築なのだ。近代居住というのはこの前提を見えなくする技術と言ってもいい。電気があれば、西側斜面の夜の寒さは消えてしまうだろう。近代土木があれば、堅固な岩盤と素性のいい石材を見つけて、そこに家を建てるという行為も不要であろう(と東日本大震災に見舞われる手前までは、私たちも相当な割合でこれを信じてきたのである)。しかしこのような基本的なbuildinghood(建てることにまつわる生存連関)を明瞭に意識することなくしては、伝統的な集落の存在の本質を解くことにいたることはできないのではないかと考えている。 上記に連関する内容を旅先でまとめつつブログにアップしているので以下に紹介する。ご確認いただければ幸いである。そのほかにもこの長期調査旅行についての記事は常時アップして行くつもりである。 ・Dholaviraに人が住む基礎を見る。Kutch訪問2013年1月5〜9日- Long Architectural Journey along with edge of Plate Tectonics, in India ・山全体の断面図を書いてみたくなった。ダージリンにて- Long Architectural Journey along with edge of Plate Tectonics, in India ・UttaraKhand 土地のかたち、人の住まい- Long Architectural Journey along with edge of Plate Tectonics, in India ・The report from Shubhi Aggarwal (SPA Student)- Long Architectural Journey along with edge of Plate Tectonics, in India 謝辞)インド調査においては以下の方々にお世話になった。記して謝意とする。 深見奈緒子 Jagan Shah Space Matters Shubhi Aggarwai(SPA student) (註1 https://picasaweb.google.com/108551454693342851793) (註2 同館の主任研究員 Divay Guptaに感謝したい。) (註3 http://ja.wikipedia.org/wiki/ドーラビーラ)

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、早稲田大学建築史研究室所属、教授、日本荒れ地学会、日本生活学会、日本建築学会などなど。その正体はResercher of temporal architectural expression.
カテゴリー: "On the Edge Tour 2013" タグ: パーマリンク

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