シシリア、ベリーチェ大地震、三つの村の”その後” Long Architectural Journey along edge of Plate Tectonics, from Greek to Gibraltar


2013年6月17日シシリーをパレルモ空港から出発し、チュニジアに着いた。シシリーの重要案件をまとめておきたい。
当初、それは二つの村を訪れることだった。ここで、やや話をさかのぼらす。

そもそも私がプレートテクトニクス際の旅を実行してみようと思ったきっかけのひとつはある疎外感からである。ようは東日本大震災で建築も流され跡形もほとんどなくさらに、建築の前提となるはずの大地が沈んで消滅している現場に遭遇した時(気仙沼舞根)、この状況では建築史を扱っている私がしゃしゃり出る余地がないと思ってしまったことだった。
様々な建築関係の方が傷ついた現場を訪れ、今も必死の苦労をして様々な提案や実践をしていることにちがいはない(実際にその労苦も伝え聞く)。とはいえ、同じような活動を自分が行う契機になり得たかと言うと、残念ながら、そういうことにはならなかった。
いわば私は震災についてはモラトリアムの状態で、東京でむしろ自分が一人の被災者であることに敏感であった。というわけであえて言えば、私は父や家族や友人や同僚の教員や学生たちを残して一人、いま日本を逃げ出しているわけである。
そして日本と同じようなプレートテクトニクス境界でどのような居住の文化や歴史が花開き、そして崩壊していったのかを実際に見ておきたいと思った。それをなにがしかの方法で記録し、公開していくことに、大学からもらった9ヶ月の特別研究期間をあてることにしたのだった。今回の報告はそのはじめの問いかけに素直に対面した感じである。個人的な前置きは以上でおしまいである。

screenshot
シシリーはトルコからキプロス、ロードスをぬけて辿り着いたユーラシアプレートとアフリカンプレートが遭遇する場所であった。
シシリーは地震大国である。今までいくつもの都市が地震で崩壊し、都市は建て直され、あるいは移動してきたのだった。そのような経緯を経た歴史的都市も訪れたのだが(Noto, Cataniaなど)、今回は1968年にシシリー中央の東西にひろがる盆地帯を襲ったベリーチェ地震によって崩壊した20世紀の村々のその後を報告しようと思う。上の地図が調査日6月15日の移動の軌跡である。後からグーグルアースで使えるデータもアップしておきます。

紹介するのは、ポッジョレアーレ(Poggioreale)、ジベリーナ(Gibellina)、サレミ(Salemi)である。当初の訪問予定は当方の研究室に在籍していた学生が現地調査をしてまとめた修士論文がきっかけとなって知った二村だった。それが「アート都市」で有名なジベリーナ、アルヴァロ・シザと地元の建築家であるロベルト・コローヴァによる廃墟を前提としてリファービッシュされたサレミであった。さらに訪問先がもう一つ増えたのは、現地での調査をサポートしてくれたイタリア人建築家の卵の方のサジェスチョンである。彼女には、オランダで活躍する建築家の吉良森子(感謝であります)さんからの推薦で、今回ご協力いただくことにしたのだが、なぜかこのベリーチェ大地震での村の移行のあり方に以前から興味を持っていたらしい。個人的に何回も通っていたのだと言う。その彼女が、もう一つの村、ポッジョレアーレを見学リストに加えてくれたのだった。

1.
6月15日、まずはポッジョレアーレに向かった。同地区は、地震で崩壊した場所より下方に新しい住区を建設した。そして旧村は放置された。今まで木が生い茂っていたのを、ボランティアが整備して今年から公開されることになったのだという。とてもラッキーであった。
廃墟となった旧村落を歩いていると村の反対側から一人の老人が歩いてくるのを見つけた。
今回は、可能な限りインタビューすることにしていたので、挨拶をし、ここにいる理由をまず尋ねてみた。孫たちに昔住んでいた場所を見せにやってきたのだと言う。すると小学生ぐらいの姉妹とその男性の妻が私たちをはさむようにやってきた。このようにして彼らと一緒に歩くことになった。

彼らから聞いた話を含め、当日行ったインタビューの概要は後日、先に紹介した建築家の卵から送られてくる予定になっている。地震前の村の思い出話の他に、現在の集落立地決定の経緯等も聞いたのだが、シチリア独特の某組織も介在してなかなか複雑なようだ。
*追記)某組織とはマフィアのことである。インタビュー中、なかなかデリケートな会話だったので、書かなかったが、Youtubeにベリーチェ大地震その後をめぐる問題がまとめられたプログラムがアップされていた。言葉がわからなくても、チェックしてみようと思う。問題としてマフィアの介在が挙げられている。

さて彼らには、様々な旧集落の”形見”を紹介してもらった。プリンスが住んでいたところ、町の劇場兼映画館、みなが結婚式を挙げた広場などである。崩壊した場所も多かったが、往時を偲ぶには充分の要素が残っていた。実際この旧集落は充分に修復可能であった。移転には他の要因が介在していると思われた。


なかでも形見としてひときわ興味を引いたのが、郵便局だった廃墟の事務室の天井際に描かれていた電報装置のフレスコ画であった。

この廃墟が生きていた時の様子がこの絵からほとばしるように想像できたからである。
彼らは現在、新しい集落に住んでいるが、新しい集落には批判的であった。若い人たちの流失が続き、もうすでに新しい集落は死んでいるとのこと。その新集落を訪れてみると確かにシャッター住宅街である。その一つの原因として基本的プランニングの失敗が挙げられるかもしれない。新しい村が村落計画に移動手段としての自動車を積極的に取り入れたことで、これによって村の外れに作られた広場は、歩いて辿り着くことがなかなか困難な位置になった。そのためこの広場はこの新しい村の寂しさをいっそう際立たせる構成となった。

基本的な計画の不備を感じた。根本的に不可解な点がいくつもあった。たとえば旧集落よりなぜより条件が悪そうなより低い場所を、新しい集落の移転先として選んだのか等である。残念ながらその明瞭なこたえを聞くことはできなかった。
ただ、いずれにせよ新しい村の背後に旧村落の廃墟がひろがっているのが見えるさま、そしてその場所が公開され、村人たちが子孫たちを連れて訪れることができるようになっていることそれ自体はきわめて健康的な行為だと思った。近代の私たちは彼岸を見えないようにどこかに追いやってしまったが、この村では死者たちは死者としてすぐあちらに生きている。

古代の都市計画には必ず死者の町(ネクロポリス)が生きている町に隣接して計画されたが、この町では図らずもネクロポリスが生まれた。そしてその死者の町との関係を、生きている人々はそこに訪れることで回復できているのかもしれないと思ったからであった。

2.
次はジベリーナへ向かった。ジベリーナはポッジョレアーレに比べて、破損状態は壊滅的であり、死者も多かったという。そのため、同集落は新ジベリーナとして西方およそ20km地点に丸ごと移転したのであった。
元の村の跡地は通りのみを現した抽象的な街区の写しとしての巨大なアースワーク作品となった(アルベルト・ブッリ作)。

わたしはこのようないささか暴力的な作品については厳しくチェックするのであるが、それは作品の完成度の高さがより問われるというだけである。もしかしたら、すごくよいかもしれないと思っていたのだった。結果としては失敗作であった。失敗と思う理由は以下の通りである。当方の実測によれば高さ1.5mほどの一律の高さの元街区であるはずの写しは、そのまわりのランドスケープを全く遮らない。
こうなるとこの量塊はその意味を全く消失させてしまっている。周囲に見える畑の一部が1.5mの高さに隆起したようにも見えてしまっている。つまりぬるいのであった。

さて移転した新ジベリーナへ向かった。移転の理由の一つにはこの地区を治める長の辣腕により、ハイウエイにより近くアクセスできる場所だからであったと同行の建築家の卵は言った。
アレッサンドロ・メンディーニ、O. M. ウンガースなど今となってはやや懐かしい名前の有名建築家たちに競わせるように街区やモニュメントや公共施設を作らせた。これによって新ジベリーナはハイウエイから訪問しやすい”アート街区”として再生したのであった。
街区計画はポッジョレアーレに比べて手慣れたもので、教科書的優秀さもあった。当然車と人の通路の分離等が計画された。旧集落の人と車が矛盾をかかえたまま同居していたであろう混乱は解消されたが、もちろん新集落はそのぶん静かになった。まるでキリコの人のいない町を思わせる。抽象性が高い。

部分的に優れた建築計画もあったのだが、あまりにコンセプトだけが先走った作品も散見される。すでに時代にずれすぎてしまった、いくつかの建築家の展覧会的作品をこわせばまだ再生できるのではないかと思ったりもした。なお偶然会った羊飼いのおじさんに尋ねたところ(彼はこの芸術村に複数の羊を放し飼いにしていた)、移転したのは住宅地だけで、持っていた農耕地はもとの場所にあり、所有者は20kmをいつも移動し生産に従事しているのだと言う。住人たちは職は変えていなかったというわけである。移転に関する大きな疑問の一つが氷解したが、はたしてその生産のための移動は総合的計画として適当なものであったかどうかは大きく疑問の残るところだろう。なおこのジベリーナの経緯については幾分批判的なドキュメンタリーが制作されているらしいが未見である。

3.
最後にサレミ地区へ向かった。サレミ地区は他の二つの村が盆地の揺れの強かった場所にあったのに対して、山上に位置していたこともあり被害は少なかったようである。しかしながら、この村の精神的中心であった山上の歴史地区、聖堂とその前の広場はその建築的天蓋をなくし廃墟となっていた。その「廃墟になったこと」を受け入れて、聖堂を復元するのではなく、アリチア広場の再生として天蓋をうしなった元聖堂を含めた、新しい場所を提案することになったのがサレミであった。

廃墟の一番の問題は方向性を見失わせることである。シザらが行ったことは、最低限の手法(手すりや新しい石床の敷設)によってオリジナルに類似し、なおかつ更新される周囲の建物群の用途に合致するような、新しい方向性をつけくわえることだったとまとめていいと思う。手すりはやや過剰な詳細を持つ部分があったもののおおむね理解可能であり、またその手すりを支えるための新たに敷設された石床が以前の詳細に注意深く挿入されることによって、その精度の高さが空間に緊張感を与えていた。このような詳細は、理解可能な人にはその意味を読むことも可能であり、また気にしなくてもよいものでもあった。

もう少し調べてから報告し直すと言っていたのだが、その建築家の卵によるとこの地区の長は、廃墟部分について1ユーロで希望者に貸し与えるアイデアを思いついたらしい。そのようにして町を直す有志を集めることで、町が再生することを願ったのだった。歴史地区の下にある場所にたたずむ人々の姿とその周囲の様子は至って普通で継続的なものであった。そんなところに聖堂と同じく、再び新しい手すりのデザインが挿入されたりもしているのだが、かなり注意深く見ないとその手すりがあることさえ気がつかなかった。

4.
結論としてサレミの解決方法は、ちょうどポッジョレアーレの持っていた旧市街の力と、ジベリーナで率先して行われた建築家たちによる先進的なデザイン(部分的に質の高いデザインが存在していた)双方をうまく統合することに成功していたように思う。
そしてその結果として、新しいデザインはほとんど気づかないうちに新しい街を支えているかのような効果を発揮していた。もちろん、これらの背後にはサレミが前二者の立地条件に対して、より安定した地盤を持っていたことも大いに関係している。

なお当日の写真のほぼすべてはリンクから確認することができます。

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、早稲田大学建築史研究室所属、教授、日本荒れ地学会、日本生活学会、日本建築学会などなど。その正体はResercher of temporal architectural expression.
カテゴリー: "On the Edge Tour 2013", Uncategorized タグ: , , パーマリンク

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