ノートブックの片隅から 伊藤ていじ訃報(2010年1月30日)に寄せて


ごそごそしていたら、以前発表した2010年の原稿が出て来た。建築史学と状況の関係を考える時に、役に立つかどうかわからないけどあげておきます。

伊藤ていじは生きている

中谷礼仁

建設会社の設計部勤めをやめて、研究室に出戻った時であった。伊藤ていじに挨拶にいった。おそらくそのときに取り組んでいた吉田五十八設計の初期作品の小林古径邸(1934年竣工、上越市に移築)の解体実測に際して先行研究者への挨拶が主な目的であったと思う。
開口一番「お前はなんてことするんだ!」と大声でしかられた。肝をつぶした。「お前は、研究職というのが茨の道である事を理解して、あんな立派な会社を辞めたのか!」となお詰問は続く。
ここで負けてなるものかとこちらも色々と説明したが、結局納得してもらえず、その日は何の成果もなく門前払いを食わされた事を記憶している。悔しかった。
その後、古径邸を担当した棟梁・岡村仁三についてやはりどうしても聴いておかねばならぬ事があり、怒られるのを覚悟で電話した。
「岡村仁三の御子孫に会って、聞き取りをしておきたいのです。ご存知でしたら教えてください。」
「知らないですね。でも居場所ぐらいは突き止めたんでしょうね。」
「はい、旧町名までは突き止めました。」
「それでわからないとは愚かも甚だしい…」
と、ここから伊藤流の指導が始まった。
「まず住宅地図を使う。その子孫の町名の最寄りにある駅を中心点として、1km半径の円を描きなさい。その中に存在する「岡村」姓すべてに丁寧なお伺いの手紙を出しなさい。もしそれであたらなかったら次は2kmまで広げなさい。経験上そこまでで必ず会える。」
半信半疑のまま、作業をはじめた。五件の岡村姓が見つかった。指導に従って手紙を出したところ、一通だけ手紙が帰ってきた。岡村仁三が祖父にあたるという方からであった。すでに大工ではなくお茶屋さんを経営されていた。結果として、岡村の手によるいくつかの和風住宅の指図と仕様書を拝借する事ができた。調査は一気にブレイクスルーした。
早速報告したところ、さも当たり前のような風情であったが、やはり見つかったことについてのうれしさを多少なりとも共有していただいていることは電話からの声でわかった。そこから折々に文通がはじまった。「難しくてよくわからないが、がんばっていることだけはわかった」など、いつも伊藤らしいシニカルな返信で楽しかった。

伊藤ていじは吉田五十八や職人研究のみならず、建築史研究者が流動する社会の中でどのようにふるまうべきなのかを自ら示してみせた人物である。泰然自若と構える方法もあるのだが、彼の身体をはった軌跡には目を見開かされる思いがした。彼の社会に対する発言は本格的にはGMPCからはじまる。「原稿マスプロカンパニー」の略で彼のみならず、当時大学院生の磯崎新、川上秀光らとタッグを組んだへんてこシンクタンク。当時の小住宅作家をこき下ろした「小住宅設計ばんざい」(註 八田利也(はったりや)名義の『近代建築愚作論』1961に所収。なお編集は故立松久昌)などは大変スキャンダラスかつ一種の大衆性も備えていて、今の状況にもよくあたっていて舌を巻く。気鋭の建築史家、建築・都市計画家がタッグを組んだのだから複眼的、客観的データの提示でかなう者なしだった。その後作業さらに展開し、『建築文化』誌上で有名な広場三部作を展開。名著『日本の都市空間』は未だに購入可能だ。当時外国からの大量注文もあり、予算も潤沢に与えられ、ジープで日本中を旅したという。雑誌ジャーナリズム華やかし頃であった。その後も、デザイン・サーヴェイの先駆けを作り、先の職人研究にむかうなど、その軌跡は中心の建築を軸足に高速にとびまわる周縁の小惑星のようだ。常に中心にいることを潔しとせず、無名なものを意味あるものにひっくり返してしまう彼の手さばきをして、彼は真のアウトサイダーだった。といってもアウトロー(ならず者)とは違うのだ。彼の方法にはきちんとした礼儀があった。

伊藤:結局『日本の民家』『中世住居史』、そして「都市史」の作業は、調査の中でいろいろ培うことのできた人づきあいの作法によって、生まれた本です。それは日本人が長らく持っていた土台のようなものに大きく支えられていた。
編:そういう文化的基盤が無くなったのはいつごろですか?
伊藤:うーん、団塊の世代あたりからではないですかね。彼らが若かった頃まではあったと思うけれども。

6年ほど前、青井哲人と清水重敦と長時間の聞き取りを行なった(註 2004年3月、『 建築史学』、第42号, p.104-134)。そのときに彼の研究人生への復帰後(戦中、戦後にかかった重度の結核から奇跡的に生還)の研究動機をたずねてみた。研究の遅れを取り戻すには、当時誰も本格的に手を付けられていなかった中世住居の文献研究と、日本全国の民家を実地に歩き回ってみることという、もっとも地味な研究を体験することが効果的であると思ったとのこと。そしてその作業は、その時代の日本のごく一般的な住宅文化やその住まい手が持っていた懐の深さによってこそ成立していたことに彼自身が深く意識的であったのである。冒頭の当方への指導方法はそのような経験に裏打ちされたものであったことをそのとき知った。私が好きな彼の仕事術の一つをあげよう。

ものは返す時が重要です。たとえば「2週間貸して下さい」といって借りるのです。そして東京に帰ってすぐさま史料編纂所で読んでもらいます。それをまたすかさず速達書留で返送するのです。そうするとほぼ一週間ぐらいで届きます。これが大事。つまり約束した期限よりかなり前にきちっと返すことです。それ以降の仕事をさせてもらえる信用をこれで獲得できます。(承前)

今書いてみて、彼の話の鮮やかさは尽きない。『日本の民家』連載中の頃の二川幸夫との珍道中など紹介したい話はたくさんある。しかし当方がもっとも震えるのは彼の仕事に対する真剣さである。1960年の世界デザイン会議で配付された彼監修の幻の日本建築紹介のパンフレットをいくつか公開したい。このカミソリのような仕事をみるに、伊藤ていじがまだ生きていることを感じる。全然悲しくない。

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2013年4月20日、2013年度建築史学会大会(金沢)記念シンポジウムにて、2000年から約4年間継続した戦後第一世代建築史家の聞き取りについての総括を行います。中断したプロジェクトで内心忸怩たる思いがありますので、謝罪も込めて行いたいと思います。

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rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、早稲田大学建築史研究室所属、教授、日本荒れ地学会、日本生活学会、日本建築学会などなど。その正体はResercher of temporal architectural expression.
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