At the Beginning of “Ford Calendar” 本が出るまで全文公開『家の本性』(仮)第二部第一章


*本編を含む論集『未来のコミューン』がインスクリプト社より発行されます(2019年1月予定)そのため冒頭部分を除き公開を制限することにしました,(2018.11.18)。

家の本性第二部 第一章

科学から空想へ

中谷礼仁

●はじめに

少し前、社会学者の上野千鶴子は、現在の住居のありかたを「家族を容れるハコ」と定義した。

「家族を容れるハコ

…「住宅」とは、「住」=住む「宅」=家のことをいいますが、歴史的にみて、家が「住むためだけの場所」になったのは、近代以降のことです。以前は仕事の場であり生産の場、祭礼の場、すべての場でした。家には奉公人などの他人もいました。それが住むためだけの場になってから、「家」は「家族を容れるハコ」となりました。裏返せば、家に住んでいる人々のことを、家族(いえ・ぞく=かぞく)と呼ぶと考えてもかまいません。」

「家族と住まいを社会学する」『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』上野千鶴子

「家というハコ

家族とはいったい何か,という定義はあまりに多様でかつあいまいである。そのせいで文化人類学は、家族の定義をとっくに放棄してしまった。

ところで日本語では、家族(かぞく)は、文字どおり、家・族(いえ・ぞく)と書く。同じ家に住んでいる族(うから)が、家族である。そう考えれば、世の中には氏族(うじぞく)やら、親族(おやぞく)やら血族(けつぞく)やら、果ては暴走族まで、いろいろな「族」がいる。そのなかで、家族とは、「家を共同している人々」という定義以上でも以下でもない、と考えてみよう。」

「nLDKの崩壊–住宅からみた近代家族」前掲に同じ

文化人類学が、家族の定義をとっくに放棄してしまったかどうかはさておくとして、家を「家族」とそれを容れる「ハコ」との重なり合い、あるいはずれとして見る。上野のこのクールな定義は現在の家族像を考える時には、重要である。

というのも確かに家族を定義することは難しい、それぞれ異なる環境の中で生を育まなければいけない人間たちの現実と、抽象化を経たあるいは「かくあるべき」として述べられた家族論は常にずれてしまうからだ。人間の雑種力、生存力とはすごいもので、極言すれば日常に見かけるどのような空間でも、知恵のついた人間たちによってはそこが居住空間として成立してしまうことは容易に想像できる。ハコは人間の生存にかかわる機能を保証する空間であれば、何でもいい。またそのハコが都市という上下水道や電気、あるいは居住の一部の代用としての施設の完備したインフラを持っていれば、それ自体には不十分な機能しかなくても成立してしまうのだ。そのハコはそこに住む人間(たち)の特性、ニーズとつながって千変万化する。そして人間(たち)の生きた動きを捉える社会学の立場からすれば、その現実的な活動を先んじさせて、ハコを変えていくべきなのだ。ここで建築=ハコを作る人は批判される。なるほど。この定義が発表されておよそ20年近く経っているが、その影響は現在の家族論や住居論にいまだに強い影響を与えている。

ただ「家族を容れるハコ」という言葉をよく吟味してみると、奇妙なことに気づく。

上野の先の二つの定義、家は「家族を容れるハコ」、家族は「家を共同している人々」を組み合わせてみる。すると「家族を容れるハコ」とは「〈家を共同している人々〉を容れるハコ」となる。これのどこが奇妙なのかというと、前の定義と後の定義とで、同じ人々を収容している物体が「家」と「ハコ」として二回登場してくる、つまり一見、同義反復が起こっているのである。とはいえ、この矛盾は必然的であったと思う。なぜか。

家の二回の登場の答えは明快である。それは家の象徴的側面と実体的側面とを別に示しているにほかならない。それゆえに、上野がいくら消そうと思っても家という象徴-ひとびとを集める力を持った幻想体系-は残っているのである。そしてさらにいえばこの幻想があれば、人はどんなハコでも家として棲んでしまうということだ。

上野は続く文章で、その「家」と「ハコ」との違いを等閑視してその後の論を展開している。

「家族という対象に,家というハコの側面から徹底的にアプローチしようとしているのが建築家の山本理顕さんである。…」「nLDKの崩壊–住宅からみた近代家族」

いつのまにか家とハコとが同一視されている。ここを起点として上野が繰り広げる住宅批判とは、基本的にはある共同体のたちふるまいとそれを収容するはたらき(機能的側面)のみのハコ(≠家)との矛盾が基準となっている。それに対して名指しされた建築家の山本理顕は、上野の指摘を最大限尊重しながらも、こう付け加えざるをえなかった。

「山本 今や住宅は擬態であるからこそ価値があるんじゃないかと思うんですよ。擬態を演じないと家族というユニットが崩壊してしまう。」「上野千鶴子×山本理顕対談 住宅,そして家族とは」

住宅作家としての山本の指摘は切実に聞こえる。住宅の存在が住宅が存在することの根拠になっている。しかしその内実は当然、確固とはしていない。それゆえ家族は擬態を演じざるをえないのである。しかしその擬態そのものが家という決して消えない象徴なのである。

上野と山本の検討からわき上がってくる疑問を受け止めてみたい。家とは「家族を容れるハコ」である。しかし、この上野の定義を受け入れると、その定義は裏切られる。先にも述べたように、家は機能的なハコのはたらきを簡単に越えて、ある共同体を成立させる幻想としても機能している。その幻想がむしろそのエレメントである人間の動きを操縦する側面を持つのだ。その強い動きを私たちはすでに第一部の「化モノ論」で紹介した。各地の伝統的住居や現代住居の名作においてその過程を検討した。それら家は、人に先んじて存在してきたともいえるデーモニッシュな物体であった。あえて言えば優れた家は、そこに人が不在でも、なにかしら〈家族〉的なキャラクターを帯びているものである。

ここにおいて私は家の定義を、「ある人間たちとそれを容れるハコとの相補的な幻想関係」として再定義してみようと思う。それは実は共同体と機能的はたらきのみのハコとに分けることはできない。つまり家は人間たちと、彼らをエンクローズする物体が織りなす幻想体系なのだ(註1)。

その相補的な幻想関係が指し示す家族像は、もちろん普遍的真実ではない。しかしその幻想関係は人間たちが、集まって住むには「こうありたい」とか「こうすべきだ」といった希望や妄想を実直に提出するというはたらきがあるのだ。その妄想こそが〈家族〉史(いかに集まって住むかのという問いかけの歴史)とでもいうべきものではないかと思うぐらいである。

それでは私たちが存在している近代以降において「家」とは、特に時代を率いてきた知識人やアヴァンギャルドたちによってどのような存在として立ち現れてきたのだろうか。

ここにおいて第一部第二章「イチジクの葉っぱ建築論」において、19世紀末ウィーンの建築家アドルフ・ロースが、人間の装飾活動が原罪的にふちどられていることを指摘したことは決定的に重要であった。彼ほど建築家の中で人間ひいてはそれらの関係とそれを収容する建造物との関係の解明に取り憑かれた人物は珍しい。その指摘はきわめて人間らしい発明物であるひとつの観念に収束する。

1902年、あるウィーンの女性用雑誌に、ロースは以下のようなラディカルな言説を披露している。

「いや,違う。人間は野獣ではない。野獣は愛する、ただ愛する、本能が命じるままに。だが人間は本能を虐待し、本能は人間に潜むエロスを虐待する。我々は厩舎につながれた野獣だ。餌のお預けをくらった野獣,命令により、愛することを強要された野獣だ。そうだ。われらは家畜同然だ。

もし人間が野獣であるなら、発情して情欲の虜になるのは年に一度だけだろう。しかし無理に抑圧された性衝動は四六時中われわれを発情させる。この性衝動というやつは分かりやすい自然なものではない。複雑極まりなく、自然に背くものだ。」

「女たちのモード」『虚空へ向けて』加藤淳訳、アセテート

この論考の途中でロースは、13世紀に端を発するフラジラント(鞭打ち苦行者)における、おのれの罪を外在化させ自らを責め苦に追いやる人々の様子を語る。続いて、「エロスの頂点を極めたマルキ・ド・サドの魂は、壮大なまでの責め苦を考え出した」として獄中のマルキ・ド・サド(1740–1814)を事例に挙げている。そしてその段落の最後で「一方で、愛らしくも青ざめた一人の少女がノミをプチッと殺し、喜びに身を打ちふるわせながらひそかに深いため息をつく。サドも少女も同類である」と結んだ。このロースの主張にはフラジラント、その内面化としてのサド、そして一人の少女までをも貫く自然に背くものとしてのエロスが充満しており、それこそが人間存在の根拠であるとロースが考えていたことを示している。つまりロースの主張を貫き通しているのは、原罪を負った、それゆえにエロス(註2)によって楽園へ回帰しようとする人間である。このような意味において人間に付随する装飾行為を原罪として告発しながら、それを否定しきることはなかった–犯罪自体は決してなくならないのだ–ロースのもっとも人間的な態度が明らかになるのである(「装飾と犯罪」原題はOrnament und Verbrechen (1908).ちなみにVerbrechenには「自然に背いた行い」という意味がある)。

そして今後の希望として、ロースはこの文章の最後にこう書き認めている。

「女の気高さが求めるものはただひとつ。それは,大きく力のある男の横で、自分の存在を誇示することにある。この渇望は、いまや女が男の愛を勝ち得たときのみ満たされる。しかしわれわれはいま、新しく、自ら働き男から経済的に独立することによって、女は男と平等な立場を獲得するのだ。女の価値が、時代によって変化していくエロスのありように左右されることはなくなる。」承前

前半と後半の文章は、ロースにとっては分かちがたかった。これは人間の原罪を認めた上で、それを克服しようとする希望なのであって、その獲得しえぬ希望をかたち=建築として成立させるところにロースの近代性(モデルネ)があった。このような意味で、ロースはニューギニアの未開人の行う入れ墨(「装飾と犯罪」)と女たちのエロス的衣装とを同一視していることは明白である。つまりその犯罪とは糾弾されるべきものではあるが、決してぬぐい去ることのできない人間の性なのであった…

 

rhenin について

中谷礼仁(なかたに のりひと)歴史工学、アーキオロジスト。早稲田大学建築史研究室所属、教授、千年村プロジェクト、日本生活学会、日本建築学会など。著書に『動く大地、住まいのかたち』、『セヴェラルネス+』など。
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